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現在、皐月杯応援キャンペーンを開催中。今週末に行われる皐月杯に出場する選手を対象に値引きキャンペーンをしています。この機会に初めて来る選手、先輩に紹介されて来る選手がいてこちらも楽しいです。
さて実は今年が皐月杯創立20周年。1998年に第一回皐月杯が開催されました。自分は皐月杯創設メンバーの一人。世に皐月杯なる競技会を生み出した者の一員としてちょっとした思い入れがあります。
皐月杯とは何ぞや?誰が作ったのか?なぜ6月開催なのに皐月杯という名前?などの疑問に答える文章をこの機会に書きます。
理工戦について
まず皐月杯の前に理工戦について書かなければなりません。
理工戦。正式名称、理工科系大学学生競技ダンス選手権大会。東部学連のホームページによれば春理工で98回目。かなり歴史のある大会です。
誰もが思うのは理工系と言いながら獨協は理工系ではないでしょ?とか、工学院は理工科なのにいないよね、という疑問。
これは理工戦が“理工科系大学を集めた大会ではない”ことが原因です。理工戦とは“弱小大学が集まって、普段は勝てない選手が入賞する喜びを味わう大会”が原点だそうです(古くのOBからの情報による)。
つまり強豪校は入ることができず、弱い大学が集まったロカール競技会が理工戦の発祥だそう。僕が現役時代に理工戦審査委員長がはっきり語っていたので間違いないです。そこで大会名をどうしようかとなったときに、“理系は実験・レポート・授業が大変で練習できないんだよ!文系より不利なんだ!そこのところ分かれよ!”という魂の叫びが理工戦の名称になったそうです(昔OBにそう聞きました。違うかもしれません。)
多分、これは理科大生の叫びのような気がします、個人的に。
ということで始まった理工戦。参加校は弱小であること、というルールがありました。
噂によると、理工戦だから入れてくれよということで電通に出場を認めたものの、全種目優勝を取られてすぐに追い出したという逸話があります(重ね重ね昔のOBから聞いた話ですから確証はありません)。
昔部室に残った写真や動画を見ると下位決勝があったりフィナーレを行っていたりと随分牧歌的な雰囲気でした。
それから時代が進み1990年代後半には10校からなる理工戦校で落ち着いていました。それが、
理科大、獨協、成蹊、農大、筑波、千葉、青学、ムサビ、都立(現首都大学東京)、電機の10校です。便宜上この10校を旧理工戦校と呼びます。
この10校だけで理工戦をしていたのですが、1997年ころになると旧理工戦校の多くが強豪校に成長していました。気づけば東都戦のチャンプはほとんど旧理工戦校が占めており、理工戦チャンプが冬全チャンプになるという状況に。レベルが高いから是非とも理工戦に出させてくれ、という大学が増えます。その多くを拒否し、当時唯一認められたのは神奈川大だけでした。
理工戦をオープンにしてほしいと言う声が上がる一方で、そもそも弱小校が集まって身内で楽しむはずの大会のはずがハイレベルな大会になってしまった。これは本来の理工戦の意義に反するのでは、という声が上がります。
・皐月杯の誕生と封印
そして1997年頃当時、都立大学の連盟から旧理工戦校で招待試合を作り理工戦をオープン参加に変えて大規模に行おうという提案が出されました。当時の都立大としては自ら招待試合を持ちたいという思惑があったようです。
それを受けて1998年の春リーキャンの会議にて旧理工戦校による招待試合を作ることが決定します。従来の春理工を無くしてオープンの招待試合にする。大会名称は競馬好きの連盟委員の意見から皐月杯と決定しました。そう競馬の皐月賞からとったわけです。
例年5月後半に行っていた春理工の代わりに生まれたのが皐月杯でした。
1998年5月に第一回皐月杯が南大沢の都立大学体育館(現首都大学東京)で開催されます。大会ルールは春理工と一緒でジュニアは1年生のW、J、シニアは2,3年生の4種目単科戦。そのためこの年の1年生は皐月杯がデビュー戦になった大学がいくつかありました。今でも活躍する後輩の三森秀明や酒井良美も皐月杯が競技会デビューです。
しかし初めての招待試合。初めて使用する都立大学。理工戦とは規模が違い運営する連盟委員は大混乱でした。
会場が初めてで慣れていないためどのようにフロアーを作るのかノウハウがない。普段は当時御茶ノ水にあった電機大学体育館を使用していたので都心から遠いことも困難になる原因に。
あまりに大変でくたくたになりながら大会をどうにか終えて片付けをした旧理工戦校の連盟一同。器材を戻すために乗ったワゴンの中で、「もう止めよう」「秋は理工戦に戻そう」「カムバック電機大(体育館)」の声。
なんと皐月杯は第一回大会が終了した時点で封印することになってしまったのです。
1998年の11月には普通に例年通りの理工戦が開催。翌年1999年には何も無かったかのように春理工が復活。第二回皐月杯は行われませんでした。
・皐月杯が都立大の招待試合に
しかし言いだしっぺの都立大には招待試合を持ちたいという気持ちがあり、皐月杯を都立の招待試合にさせてくれという希望を出し、認められて皐月杯は都立大主催という形で復活することになります。
こうして2000年に皐月杯は復活するのです。なおこの皐月杯に僕はOBジャッジとして参加しているので感慨深いものがありました。
問題は時期であり、春理工は残るので空いている日程にする必要があり、6月開催にせざるを負えない。結果として皐月と言いながら6月に開催すると言う矛盾がここから生じるのです。
新生皐月杯は2年生がジュニア、3年生がシニアという今と変わらない大会形式。シニアに4年生が出場できるのも早い段階で適応されていました。
・大会数を減らす流れ
新たに招待試合ができたわけですが、当時は大会数が多かったのです。
僕はぎりぎり明治招待試合レインボーカップ、日大招待試合桜門戦を知っている世代。他にも小規模は競技会がいくつもありましたし、今も残っているものも。
それらとは別に学連主催にジュニア戦というものがありました。
〇東部ジュニア:前期に開催。東部の大学全てが対象。ジュニアは2年生のみT、F、S、Pの単科戦。シニアは3年生のみ8種単科戦。シニアのT、F、S、P各種目優勝者には次年度のデモンストレーション権が与えられる。
〇東都ジュニア:2年に一回の隔年開催。前期に開催。東都大学が対象。ジュニアは2年生のみ、2種目選択の単科戦。シニアは3年生のみ、4種目総合順位。
〇六大ジュニア:2年に一回の隔年開催。東都ジュニアに対する六大学対象の大会。
〇ラテン新人戦:前期に開催。東部の大学全てが対象。スタンダード専攻も出場するラテンのみの競技会。ジュニアは2年生のみ、C、S単科戦。シニア上がり制度があり3次予選突破でシニア1次予選へ。シニアは3年生のみ、C、S、R、P単科戦。なおC、S各種目優勝者には次年度のデモンストレーション権が与えられる。
〇モダン新人戦:後期に開催。東部の大学全てが対象。ラテン専攻も出場するスタンダードのみの競技会。ジュニアは1年生、W、Q単科戦。シニア上がり制度があり3次予選突破でシニア1次予選へ。シニアは2年生のみ、W、T、F、Q単科戦。なおW、Q各種目優勝者には2年後のデモンストレーション権が与えられる。
こういったジュニア戦が存在しました。
あまりに大会が増えてしまったため、学生の負担を軽減するために大会数を減らす方針となりました。東部ジュニアとシニア上がりの制度が統合して前期新人戦に。ラテン新人戦とモダン新人戦が一緒になり後期新人戦に。東都ジュニア、六大ジュニアは廃止へ。このような大会の統合が進みました。
昨年、皐月杯中止でまさかの東部ジュニア復活という出来事がありました。ここで東部ジュニアの名前が出るとは、思わず懐かしいなあと苦笑してしまったものです。
・2年生のみの大会は皐月杯だけに
そうなると2年生だけで優勝者を決める大会は皐月杯だけになるのです。
旧ジュニア戦があった頃は前期に2年生だけのクラスがあるので同期内でどれくらいの位置にいるのか測ることができました。モダン人であれば後期のモダン新人戦で2年生内のトップが分かりました。
ジュニア戦統廃合により、皐月杯だけが唯一2年生のみで決着をつける大規模な競技ということになったのです。2年生はほとんどの大会で3年生と一緒に戦うため、皐月杯が良いバロメーターの役割を担うようになったのです。
・シャドーリーダーの実績作りの場
そして6月開催ということもあり、2年生にとっては前期最期の大勝負という意味合いが出てきます。
更にうちの母校理科大では歴史的にパートナー不足で多くのシャドーリーダーを輩出してきました。やはり前期の時点で正規カップルが組めなさそうというのは当人が分かってくるため、シャドーのお見合いを有利にするために皐月杯で成績を残し、他大学のパートナーとお見合いするときの肩書にする大会にもなりました。
「皐月杯で勝ってお見合いを有利に進めるぞ!」と先輩に激を飛ばされる光景がよくみられたものです。理科大あるあるな話です。
時代とともにその意義が変わってきた皐月杯。その流れを踏まえて、数少ない2年生同期対決が実現する場であることを再認識。今年はシニアが無いためなおさら主役は2年生。
出場選手の健闘を祈ります。
甲野 功
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