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「週プロ」と聞いて<週刊プロレス>のことだと分かる人はプロレスファンに違いないでしょう。
週プロとは我が国最初にして現在も残る唯一のプロレス専門週刊誌です。1983年に週刊化。それまでの月刊誌から週刊誌へ移行しました。
発行元はベースボールマガジン社。その名前の通り「ベースボールマガジン」を発行する出版社です。
この週プロという雑誌は数多の伝説を残し、週刊誌というマスコミの枠を遥かに逸脱した存在に一時期なりました。
週プロの全盛期は概ね1990年代の前半頃といえるでしょう。
二代目編集長のターザン山本氏を筆頭に数々の名物記者(編集者)が異常とも言える仕事量をこなし、とてつもない発行部数と利益を生み出しました。私はちょうど全盛期に向かう1992年頃から読者になり、絶頂期から急降下する様子をリアルタイムで体験してきました。中学2年生から大学4年生くらいまでの多感な時期、常に週プロがそばにあって大きな影響を受けたものでした。
『週プロ』黄金期 熱狂とその正体 (「俺たちのプロレス編集部」)
という本が発売されました。当時の週プロの裏側を検証する本となっており、これを読むことで当時の自分を振り返る作業になりました。ある期間ある時代に、マスコミでありながら間違いなくプロレス界の中心にいた週プロとは何だったのかを検証する本です。
簡単に当時の週プロという雑誌がどれくらい売れたのか逸話がいくつもあります。
雑誌を1冊出せば数千万の利益が出た。
週プロの利益で母体であるベースボールマガジン社の自社ビルを建て直した。
世界一写真数が多い週刊誌だった。
他部署の社員が経費削減を強いられる中、週プロ編集者は経費を使いたい放題だった。
などなど。とにかく売れていました。
雑誌の中身も相当尖っていました。
普通は記者、カメラマン、編集と分業で雑誌を作るようですが、週プロの場合は記事によりますが全部ひとりで行います。少なくとも記者が記事を書き、写真を選び構成し紙面を作ることが当然でした。カメラマンが足りないときは記者自らカメラを構えるという。
雑誌作りなど知らない理系高校生だった私ですら、この人たちの仕事量はちょっとおかしいのでは?と勘づくほど。当然ながら徹夜は当たり前で、ある記者は体調を崩して医者に「仕事と命どちらが大切なの?」と怒られたところ「もちろん仕事ですよ」と答えたとか。働き方改革が叫ばれる今では考えられない働き方をしていたのです。
更に紙面の内容もとても恣意的。記者編集者の好き嫌いがはっきりと紙面に反映されていました。
プロレスの試合経過を一切書かないことも多々ありました(特に編集長のターザン山本氏の記事)。当のレスラーたちに「ただの感想文じゃないか!」とクレームを入れられることも。
普通は見向きもされない若手の第一試合(つまり前座)をカラー4ページで記事にする。
スキャンダラスな事件を追いかける、団体が隠したい内容もどんどん記事にする。
当時ライバル誌だった「週刊ゴング」が正統派の記事と記録媒体として残る紙面作りをしていたこととは対照的だったのです。
このようなやり方をターザン山本編集長時代の週プロは突き進み、熱烈な読者を獲得していきました。
その中の一人が学生当時の私でした。
まだインターネットもYouTubeも無かった時代。数少ないテレビ中継ではとうてい情報が足りないため、週プロが書く文章と写真が大きな情報源でした。
「活字プロレス」と名付けられた書き手からの投げかけを受けて、プロレスの裏や意味を考えることが、週プロの醍醐味でした。ある意味試合結果すらどうでも良いような。読者は思考を楽しむものになっていたのでした。
東京ドームでのオールスター戦興行主催でピークに達した週プロの力は、その後の業界最大手である新日本プロレスからの取材拒否により失速していき、最終的にターザン山本氏を退社させることで騒動が終息に向かいます。
そこからは3代目編集長による柔和政策で方向転換を余儀なくされていきます。時代もインターネットが普及し始め、格闘技が台頭してきた頃。
一つの時代が終わりを告げた時期でした。
ずっと読者として追いかけていた中学、高校、大学生当時の私には、現実でありながら映画を見ているような感覚でした。まさに熱狂していた。毎週かなりの量の記事を読み込んでいたものです。この頃の経験が今でも影響を与えていて、生粋の理系人間でありながら文章を書くことが苦にならないのはこのためです。
週プロの記者はどの方も個性があり、文章に特徴が出ていました。
特に週プロの慣習として記名記事があります。必ず誰が試合の記事を書いたのか分かるように記者の名前が載っていました。他の新聞でも週刊誌でも、記者やライターの名前を掲載することはありませんでした。週プロは異例です。そこにはクレームを入れるときに個人を特定できるというリスクと個人の主張をはっきりさせるための狙いとあったと思います。
記者たちは出版社の一員でありながら、一個人として業界内で戦っていたのでした。その状況下だからこそ尖った紙面になったのでしょう。
記者の主観、主張がはっきりと文面に出ていました。誰と誰が戦って、どうような試合展開で、どちらが勝って、このようなコメントを出した、で済むところを、記者独自の視点で意見し称賛し批判し問題提起し、ということを平然と行っていました。
それゆえにプロレスラーや団体と軋轢を多く生みます。最たる例は業界最大手の新日本プロレスからの取材拒否でしょう。同じプロレス業界内で専門誌に取材拒否を出すという究極の内輪揉めです。お互い不利益ばかりなのは当然なのですが、あまりに週プロの力をつけすぎたことに対する報復措置とも言えるでしょう。
新日本プロレスのビッグマッチ東京ドーム興行を取材できなくなった週プロ編集部は、なんと自腹でチケットを購入し東京ドームに来場し勝手に記事にして増刊号を出すというやり方に出ます。
写真が一枚も無い。全て文字だけ。選手に取材ができないのでインタビューもなし。観客席から見た試合を思い思い大量の文字で書き綴る。
この増刊号を買いましたがさすがに無茶でした。表紙から中身に一枚も写真もイラストもないのですから。
毎週楽しみに記事を読み、考えを巡らせていました。改めて裏事情を知ると当時見えていたことと事実は全然違うことが分かりましたが。いい意味で騙されていた。
この頃の体験が今に活きています。
文章を書くときは必ず名前を最後に入れます。それは週プロの影響そのものです。
参加したイベントについて書くときは必ず自らの視点と意見を入れるようにしています。そこに起きた出来事だけを列記するに終わらないようにしています。
もう四半世紀前のことになりますが、当時の週プロは文章を書くやり方を教えてくれた教科書でした。
甲野 功
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