開院時間
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いつものように新宿の大型書店を訪れたとき。目に留まったムック本。
それは故三沢光晴氏を特集したものでした。
亡くなって10年経ったことを思い出し、手を取りました。
三沢光晴。
不世出の天才プロレスラーの一人でしょう。
僕の人生に大きな影響を与えた人間の一人です。
三沢光晴とは。簡単に説明します。
故ジャイアント馬場氏が設立した全日本プロレスに入団し、プロレスラーとしてデビュー。
デビューしてから数年後に2代目タイガーマスクとして再デビューをします。その後全日本プロレスの主力選手が大勢離脱してしまい、団体存続の危機に陥ったときに試合中に突然マスクを脱いで素顔の「三沢光晴」に戻ります。
その後「超世代軍」というユニットを率いて低迷から大盛況にV字回復する原動力となりました。トップ選手として全日本プロレスを牽引し、ジャイアント馬場氏が亡くなったあとは全日本プロレス社長を引き継ぐことになります。
しかしオーナーとなる馬場元子さんと運営方針で対立し、選手・スタッフのほとんどを連れて新団体ノアを立ち上げます。
長らくノア、そしてプロレス界のトップ選手として活躍しましたが、2009年6月13日の広島大会、バックドロップという技を受けて亡くなります。奇しくも師匠のジャイアント馬場没後10年目のことでした。
全盛期を過ぎたとはいえメインイベンターのトップ選手がリング上で亡くなる(死亡が確認されたのは搬送された病院ですが実質即死だったと言われています)というのは前代未聞のアクシデントでした。
受け身の天才でどれだけ危険な技を受けても立ちあがって戦ってきたレスラーでしたから、まさかプロレスで亡くなるとは思いませんでした。
若い頃から過酷な試合を繰り返してきました。ファンの想像を超える壮絶な試合を繰り返してきました。社長になって多くの選手とスタッフを食べさせていかなければならない重責に加え、当時は日本テレビ地上波の放送が打ち切られて放送料が激減、経営が苦しくなっていた。その時期に長年蓄積したダメージがたたったというのが一般的な見解です。
僕がプロレスと、そして三沢光晴氏と出会ったのが中学二年生の頃でした。
中二病なる言葉あることから分かるように、とても不安定でもやもやしていた時期。これまでの人生で一番戻りたくない時代は中学生の頃だと断言できます。
当時は今では考えられないくらい、同調圧力が強く右に倣えの風潮でした。
野球の人気が凄く少年は野球が好きなことが当たり前という時代。クラスでは平気で「おまえ(野球は)どこファン?」という質問がありました。野球が好きなのは当然として、巨人?阪神?ヤクルト?みたいなことです。野球は興味ないよ、などと答えらない雰囲気でした。
そして男の子の価値は、野球の上手さとほぼイコールでボールが速く投げられる、打てる、遠くまで投げられるといった能力がその子のランクを決めていました。
野球に興味がない、球技全般苦手。ボールをまともに投げられない。そのような僕は年下にもバカにされていました。うわ、使えねえ。そんな感じです。
あの頃は横柄な野球ファンがとても多かったのです。特に巨人ファン。ゴールデンタイムにテレビ(もちろん地上波しか存在しません)で生中継していた時代。
4番が三振するとチャンネルを変える(この表現が昭和、平成初期ですね)。
巨人が負けるととたんに機嫌が悪くなる。
そのような大人がたくさんいました。子ども心に、苦しい時ほど応援するのがファンじゃないのか?こんなのファンでもなんでもない!と叫んでいました。
対して負けても全力で応援している阪神ファンには好感を持っていました。
野球に限らずみんなが同じ価値観、同じ方向を向く、人と違ったことをするのは悪。そのような雰囲気があり息苦しかった。
多様性とかダイバーシティといった言葉は世間にはなく。
専業主婦が当たり前。
父親に「人と違ったことをしなさい。ライバルが少ないから。」と習い、野球ができない・興味もない、共働き家庭だった、僕にはとにかく生き辛かった。
中学時代はいわゆるイケているグループというのがあり、その中心人物みたいなのがいたわけです。そのクラスメイトがプロレスが面白いという話をしていて、世渡りの意味もありプロレスをちょっと見ておこうと思いました。まだ日本テレビ(全日本プロレス)、テレビ朝日(新日本プロレス)、フジテレビ(全日本女子プロレス)で放送していた頃。
その面白さに夢中になりました。
まさに夢中でした。今でも日本ではメジャーとは言えないこのジャンル。当時も八百長だショーだと揶揄されてファンは肩身の狭い思いをしていました。
世間に反発するようにプロレスラーもプロレスファンも熱かったのです。
冷静に考えれば矛盾だらけ。なぜロープに振られて返ってくるのか。なぜ綺麗に技が決まるのか。なぜジャイアント馬場は負けないのか。色々胡散臭い。しかしよく見ていくととても奥が深い。週刊プロレスを毎週読みながらどんどん知識を深めていきました。
その過程で一番好きになった選手が三沢光晴氏でした。
当時はまだ20代。タイガーマスクから素顔になった頃でした。見始めたときは置かれている状況を知る由もありませんでしたが、調べていくうちに危機に陥った全日本プロレスを救うべく若い選手が奮闘している、その旗手が三沢光晴氏だと理解していきました。
そこから超世代軍ブームというのが起き、興行成績はどんどん上向きました。テレビ中継の視聴率も跳ね上がりました。この全日本プロレス中継から世に出たのが現在はフリーアナウンサーの福澤朗氏です。若手アナウンサーから日本テレビの看板アナウンサーになっていく様子をリアルタイムで見ていました。
そして四天王プロレスと称される他に真似できない世界を構築していきました。
当時のことを週刊プロレス記者として取材を続けていた市瀬英俊氏が手記にまとめています。それによれば毎日体を酷使し限界に挑戦していた裏側が分かります。
あの頃、いちファンとして熱狂した反面なぜこの人たちは死なないのだろうか?と不思議でした。無事なのか?ではなく、死なないのか?。それくらい来る日も来る日も頭から落とされ、殴られ蹴られていました。その超人的な姿に勇気づけられたものでした。
プロレスと出会ってから僕は前向きになりました。
はっきり言ってマイナーな好きな人は好きだけど大多数は見向きもしないプロレス。負ければ終わるのに敢えて技をくらって何度も立ち上がる。負けても評価が上がる。
それに出会ってから周りに合わせなくてもいいやと開き直りました。
元々人と感性が違う子供だったので「それの何が楽しいの?」と言われることがしばしば。悪いことをしているような感覚に襲われました。
プロレスが好きだと開き直ったら周りの声がどうでも良くなって、自分らしく生きていける気がしました。もう周囲に合わせるために興味のない野球の話をするのをやめました。好きなものを好きといって、それに全力で取り組むように。
2つ上の成績優秀な姉がいて、中学の先生に「お姉さんは優秀なのに弟はダメね」と面と向かって言われました(当時はそういう時代です)。プロレスと出会ってから学校の成績が上向き、姉と同じ高校に合格し敢えてそこには行かず、大学は姉が受験して落ちた大学に入学することになります。
もやもやしていた中学時代に光を当ててくれたのがプロレスで、そのジャンルのヒーローが三沢光晴氏でした。
中学・高校と夢中になって追っかけたプロレスと三沢光晴氏。大学に入ると優先度が下がってきます。社会人になるとますます下がってきます。他にやることやるべきことが出てきました。
あるとき日本テレビ地上波からプロレス中継が消えます。まだネット配信が無かったため映像で三沢光晴氏を見る機会が激減していきました。脱サラして国家資格を取り、仕事が精一杯になっておりプロレスからやや遠ざかっていきます。
2009年6月。その年の3月に入籍し、12月に結婚式を挙げることが決まっていました。
時を同じくして大学の同期も夏に結婚式をするということでした。結婚式の紹介ビデオを作るため大学時代の写真が無いかと相談を受け、相手とともに同期が我が家を訪れることになりました。
最寄り駅まで二人を迎えに行き待っているときに、携帯のニュースサイトで三沢光晴氏死去のニュースを知ったのです。
あの三沢が?プロレスで?誰よりも受け身が上手だったのに?
文字通り目を疑いました。
それからは追悼関連のニュースや雑誌を目にするたびに涙が出る日が続きました。
「お別れ会」が有明で行われることが決まります。
職場を早退させてもらい、献花に向かいました。
ゆりかもめの駅から続く長い長い人の列。会場に入る前でに1時間半くらい並んだでしょうか。不思議と長く感じませんでした。これだけの人が訪れているのだな、と感慨にふけりました。
僕は芸能人にサインを求めたり握手をお願いしたりまずしません。プロレス以外でライブ会場に行くこともありませんでした。
このような追悼イベントに参加するのも最初で最後だと思います。三沢光晴氏だけが特別で人生の転機になった方だったという想いがあります。
僕自身が結婚した年に亡くなった三沢光晴氏。10年前の大きな出来事を思い出しました。
本を読むと改めて三沢光晴氏の偉業が再確認できます。同業のプロレスラーからも一目置かれていたひとでした。
あるレスラーの「三沢さんのことがあってから、リング上で死ねば本望から、無事にリングを降りて帰ってくる、に変わった」という趣旨のコメントが印象的でした。
三沢光晴氏没後10年。改めて偉大な、そして僕に大きな影響を与えた人物を思い返しました。
甲野 功
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