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~2000年問題~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 2000年問題
2000年問題:Y2K

 

若い人は知らないであろう2000年問題

 

2000年問題とは、西暦2000年になるとコンピューターが誤作動するかもしれないという問題である。
Y2K(ワイツーケイ)という略称で呼ばれた。Yは年(Year)、Kはキロ (Kilo:千)である。


この当時、多くの内部システムは日付を扱う際に、西暦下2桁だけを表示していた。1999年ならば99と表示していたのだ。4桁の西暦を表示するには4桁にするのが当然なのだが、昔のコンピューターではメモリの容量が少なかったため、節約する上で下2桁による表示をしなければならない実情があった。

 

そうなると2000年は00年と表示されるので、コンピューターは1900年だと判断してしまい、過去に日付が遡ることになってしまう。その矛盾した状態になったシステムが、何かしらの誤作動や暴走が起きるのではないかと考えられた。具体的には大規模な停電、公共交通機関の麻痺、金融関連機能への影響などが想定されたのである。

 

これが『2000年問題』と言われた内容である。現実には大きなトラブルは起きなかった。この問題を騒いでいるのは一部の国だけであるという報道もあった。

 

 

今から20年前の1999年12月31日。『2000年問題』は社会の大きな関心事であった。
その2000年問題に関わる体験を20年前の記憶を辿って振り返ろう。

 

 

当時はいわゆる世紀末。20世紀の終わりであった。
しかも1000年代が終わり新たな2000年代が始まる千年紀において切り替わる時期。千年紀をミレニアム(millennium)といい、Y2Kとならび流行した言葉であった。なお20世紀は2000年末までで2001年から21世紀が始まる。1999年年末は新ミレニアムに移行する時期であった。つまり2つの世紀末が2年連続で訪れるのであった。

 

世紀末何かが起きるのではないかという漠然とした不安が社会全体にあった時代だった

 

1980年代に連載がはじまった少年マンガ「北斗の拳」。あの舞台は199X年、核戦争が起きたあとの日本(おそらく関東地方)なのである。世紀末では、世界全面核戦争が起き、日本人が筋骨隆々のモヒカン刈りになり「ヒャッハー!」とバイクに乗って庶民を殺戮するマッドマックスの世界になってしまう。そのような設定がまかり通るくらいの不安感があった。
なお人づてに「北斗の拳」が大好きなイタリア人にあれは20世紀末の日本が舞台だと伝えると、絶句したそうな。

 

実際に世紀末に何かが起きるという風潮に一役買ったものがあった。
ノストラダムスの大予言である。
16世紀の医師、ミッシェル・ノストラダムスによって書かれた暗号のような預言書。彼はいくつもの予言を的中させて(的中したとされ)予言者として名を馳せた。その文章は詩のような難解なものであるが、1999年7月に天から「恐怖の大王」が降ってくるという予言を残している。ノストラダムスの予言で具体的な日付が出てくるものは稀である。また直訳すると「驚愕の大王」のところを「恐怖の大王」と誤訳され、人類が滅亡するという解釈がまかり通ってしまったとされる。
当時の日本では大ブームが起きて、今日でいう都市伝説の類として主に少年たちを虜にした。

少年マガジンで不定期連載した「MMR マガジンミステリー調査班」というマンガもそれを大いに後押ししたのである。MMRとはマガジン・ミステリー・ルポルタージュの略で実在するマガジン編集部が取材を重ね(もちろんマンガの中の話、フィクションなのだが)、世紀末の人類には絶望的なことしか起きないというレポートをするマンガだ(なんじゃこりゃ)。例に漏れずノストラダムスの大予言をフィーチャーしていた。

 

実際のところ、1999年の7月には大きな出来事は何も起こらなかったのではあるが、何が起きてもおかしくないという社会状況は揃っていた。

 

1995年1月に阪神淡路大震災が関西地方を襲う。高速道路が倒れ、市街地が火の海に。関西に大地震は起きないという安全神話を打ち砕いた。自衛隊が被災地で活躍することで自衛隊への見方が変わった歴史的出来事である。
そして同じ年の3月には首都圏で地下鉄サリン事件が起きる。朝の通勤時間に地下鉄内の複数個所に猛毒サリンを撒くという無差別テロが東京を襲った。バイオテロでありこの事件から日本でも生物兵器対策が進むことになる。
このような社会不安に陥る事件が起きており、本当に世紀末に人類が滅亡するのではないかという不安があった。

 

世の大人達にとってノストラダムスの大予言などよりも遥かに現実味を帯びていたのが2000年問題である
制御システムの誤作動によりミサイルが発射されて第3次世界大戦の引き金になるのでは?という憶測もあった。結果的に大きな混乱は起きずに2000年以降を迎えるのであるが、細かな問題はいくつかあったのである。


当時のエンジニアは西暦を4桁に変更するシステム変更に追われたという。交通機関も有事に備えたとも。筆者の大学研究室では実験に使用しているコンピューターを全てシャットダウンして年越しをしたが、再起動した際には1900年1月と表示されていた。

 

 

1999年12月当時、大学4年生だった。
競技ダンス部に所属し、12月はじめに最後の全日本選手権大会を終えて引退したばかりだった。一般企業の内定をもらっており、学生最後の年越しになるはずの1999年12月31日の夜、都内の有名ホテルにいた。年越しダンスバイトのためだった。

 

大学で競技ダンス部に入り、社交ダンスで成績を競う世界に身を置いた。その過程でダンスバイトという特殊技能を活かした割のいいバイトと出会う。
社交ダンスのパーティーでお客さんと踊るバイトだ。ダンスアテンダントとかリボンちゃんと言われるものである。社交ダンスのパーティーでは圧倒的に女性客の方が多く、その女性客と踊れる男性は重宝される。


20年前となるとしっかりと社交ダンスのステップが踏める若い男性はプロダンサーを除けば学生競技ダンス選手くらいのものだった。大学時代はホテルで行われるダンスパーティーのバイトを斡旋してもらい、しばし日雇いバイトとして参加して臨時収入を得ていたのである。実働時間に対して驚くほど高額の謝礼をもらえた。

 

年越しダンスパティ―。考えてもなかなか実行に移すのは勇気がいる企画。主催する側も大変であろう。都内実家暮らし、両親が東京出身で年末年始に帰る田舎がない大学生にはよい小遣い稼ぎになる。来春から社会人になるので、今後このようなチャンスもないであろうと求人に応募した。

 

大みそかの紅白歌合戦も佳境になっているかという時間帯。集合場所である都内有名ホテルには、もう一人学生バイトであるM学のN君がいた。N君は他大学であるが同学年で、よくダンスバイトで一緒になった割と仲の良い同期だ。同じモダン専攻である。

 

同じく酒が飲めないN君。あるダンスパーティーバイトで一緒になり、パーティー後の打ち上げに参加したときのこと。学生ダンスバイトを斡旋した他大学のOBが酒を勧めてきて、体質的に飲めないのですがと断ったのに、「俺の酒が飲めないのか」とすごまれ、N君ともども嫌々一気飲みをした。自大学の後輩ならまだしも、他大学の現役世代も被らない後輩に酒を飲ませるという時代。令和の今ならアルハラ、パワハラでアウトだ。そんなことがまかり通った20世紀。
吐き気と戦いながらN君と帰りの電車に乗った。互いに「大丈夫か?吐くなよ」と励ましあいながら。

 

N君とは、選手としての実力は雲泥の差があった。引退となる4年生の最後の全日本。N君は渾身の踊りができたのにファイナルビリだったと嘆いてきた。悔しいのはわかるが種目は違えど同じ引退試合で予選落ちした人間に言うことかね?とちょっとむっとした。まあ、それくらい話せる仲であった。

 

斡旋した学生競技ダンス連盟からは募集人数が少なかったため、応募した中から年功序列で決めましたと言われた。よって引退したばかりの4年生が選ばれたというわけだ。一緒にバイトするのは知り合いでほっとした。年越しを一緒に過ごすわけでもあるし。

 

しかし会場で待っていた主催者を知り、N君と二人でびびった。ラテンの名門KスタジオのオーナーK先生とそのパートナーの先生だからだ。モダン専攻のモダン人でもその名前はよく知る業界のビッグネーム。
小さな控室に通されてK先生カップルとテーブルを囲んで座ることに。もう一人名前を存じ上げない男性のプロダンサーが加わり5名。6畳くらいの部屋であろうか。待機していた。
業界の大物と至近距離で座り緊張する。トイレに出たときにN君と「モダンで言えばN岡でしょ。凄いなあ。」と話した。いかんせんK先生とは面識も接点もないため何を話していいのか分からない状態。
K先生のパートナーさんがケーキを出してくれて「食べながらイベントまで待ちましょうか」と話してくれた。K先生からこのパートナーについて教えてもらった。

 

まず今回は従来のダンスパーティーと異なりホテル主催のカウントダウンイベントに社交ダンスが組み込まれたものだそう。2000年問題があり、万一停電が起きた場合は宿泊客の安全を確保するため、なるべく同じ場所に固めておきたいというホテル側の意向があった。そこでどの層にも集客できるようにとダンスホールも作ることにした。
スタジオのパーティーで同ホテルと付き合いのあるK先生はホテル側の依頼を断れず、しかし大晦日までスタッフを働かせるのも忍びないとオーナー自ら参加することを決めたのだと。足りない人員は学生と知り合いのプロを使うという。カウントダウンが終わったらどんどんお客は部屋に戻ってしまうからそれまで頑張ってね、ということであった。

 

ここにも2000年問題が影響していた。今年だけのイレギュラーなイベントということになる。
その事情を知ると2000年になる瞬間、何かが起きるかもしれないという懸念が大きくなった。果たして停電や重大なアクシデントが出現するのであろうか?

 

 

全員でイベント会場に入ると、そこには小さなダンスフロアが作られていて、ダンス以外のブースも同じ部屋にあった。確かにこれはイベントの一部に社交ダンスコーナーがある感じだなと思った。

 

時計が無くて正確な時刻は不明だったが(ダンスバイトでは腕時計を外すようにしている)午後11時くらいだろうか、カウントダウンイベントがスタートした。純粋なダンスパーティーではないのでダンス目的のお客さんは多くなく、フロアーの狭さもありこじんまりとダンスタイムが進む。

 

このようなダンスバイトでは学生が率先して踊るものだ。ほぼ休みなく踊り続けるが体力的には問題がない。
当時は12月はじめに22歳になったばかり。それまで大学1年生の頃から現役選手としてやってきた。全力を尽くす競技会。根性ものと言われる基礎練習。今ならばコンプライアンス的にダメだと思う厳しい内容をこなしてきた自負がある。なるべく気分よくマダムを躍らせることに神経を使うが体力的にはお遊び程度だ。

 

11時50分くらいだろうか。一度ダンスタイムが中断する。カウントダウンが始まるため会場中がモニターに目を向けることに。1999年から2000年へ。新しい年、新しいミレニアムを迎える準備に。ホテルのスタッフにお酒を渡されたが仕事中ですので、とソフトドリンクにした。酒が入っては踊ることができない。何より万一何かが起きたとしたら酒が入っている状況はとてもまずい。学生の単発バイトとはいえ有事の際には避難の誘導を手伝った方がいいのだろうか、などと考えていた。

 

1999年も残り10秒で終わる。カウントダウンが進み、5、4、3、2、1、0、ハッピーニューイヤー!となった。
若干身構えたが、何も起こらなかった。
お客さんは新年を迎えて盛り上がっている。雰囲気でホテルスタッフがほっとしているのが分かった。一部安堵が混じったまま乾杯が進み、興奮がひと段落するとダンスタイムが再開した。ここからは消化試合のようなもの。お客さんが客室に戻るまで踊ることでこのバイトは終わる。そう思って後半のダンスタイムへ。

 

 

事前の予想通りカウントダウンイベント会場から段々とお客さんは消えていく。元々少ない社交ダンス目当ての参加者もみるみる減っていった。それでも普段のダンスパーティーにおけるダンスタイムよりはずっと長い時間踊り続けることになっていた。それでも体力的に問題はない。
当時は12月はじめに22歳になったばかり。それまで大学1年生の頃から現役選手としてやってきた。全力を尽くす競技会。根性ものと言われる基礎練習。今ならばコンプライアンス的にダメだと思う厳しい内容をこなしてきた自負がある。

 

しかし終了時刻を知らされていなかったので精神的に疲れてきたのは確かだった。いつになったら終了するのか明確なタイムスケジュールを聞いていない。時計も見えないので今何時なのかも分からない。


時間が過ぎるにつれて会場にいるお客さんは減っていき、ダンスフロア―しか稼働していない状態になっていた。他のイベントブースは電気が消されて撤収が始まっていた。
たくさんの人でごった返していた会場はまばらになり、ライトがついているのはダンスフロア周りだけになっていた。

 

随分前から気付いていたのだがずっと踊っているお客が2名いる。便器上、マダムAとマダムBと呼ぶことにしよう。
ヒールのあるダンスシューズとダンスパーティーウェアを着ているため、一目で“ガチ勢”だとわかった。このお二方はずっと踊っている。


いつしかフロアー内にいるのはN君とマダムA、マダムBを含めた4名だけ。マダムAと踊り曲が変わるとマダムBと踊り、また曲が終わるとマダムAと踊る。N君と二人で交互にずっと踊り続けているのだ

体力的にはまだまだ問題ない。当時は12月はじめに22歳になったばかり・・・(以下省略)。しかし段々と精神(きもち)が削られてきた

 

小さめのフロアーには学生バイト二人とマダム二人。もうマダムたちはフロアーから出ることもしない。
通常のダンスパーティーでは、曲が終わり一度ダンスが終わるとお客さんは離れて席に戻る。そこに我々リボンちゃんが躍りませんか?(まさにシャルウィダンス?)と声を掛けて、「誘われたのだから仕方ないわね」という体(てい)でダンスに入る。そのやり取りがあるためダンスをする時間自体が割と削られるものだ。


マダム二人はもはや席に戻ることもなくフロアーに居続けて交互に学生ダンスバイトと踊り続けている。K先生たちは椅子に座って休んでおり、もう踊る気はないようである。

 

他の個所は電気が落ちて閑散としたイベント会場。
狭いダンスフロアーで大学生2名とマダム2名がエンドレスで社交ダンスを続けている。
それを眺めるK先生たちとホテルスタッフ。
2000年1月1日の深夜。
ワルツ、タンゴ、チャチャチャ、ルンバ、ほか。
もう出せるステップも尽きてしまった。

 

そのときある考えが脳裏をよぎる。
これ、誰もイベントを終了する人がいないのでは?

 

K先生はお客さんが部屋に帰ったら終了と話していた。ホテルスタッフもエンドレスでダンスミュージックを流し続ける。
誰も終了決定権がもっていないのか?
最後のお客さんであるマダム達が終わりというまで続くのか?
そう考えた。少なくとも学生バイト二名には決定権はなく、粛々とダンスを続けるしかない。当のマダム達は全く疲れた様子はなく、むしろどんどんと元気になっているような。こちらのエネルギーを吸い取っているのかと邪推してくなるほどに。全く衰えない。そして終わりが見えない。


1月1日の深夜、これはどういう状況なのだろうか。

 

精神的に滅入りはじめた頃。唐突にこれでダンスパーティーは終了となりますとアナウンスがあった。誰か大人が止めてくれたようだ。最後まで残ったマダム達からは、楽しかったわ、という言葉を頂いた。


控室に戻ったときに、心なしか老けたような気がした。

 

 

想定と違ったことを悪く思ったのかK先生が最寄りのJR駅まで自家用車で送ってくれた。近くに地下鉄の駅があったにもかかわらず。先生とは縁がない大学生には、身に余る光栄であった。元日であるため深夜でも電車が運行していた。

 

JR市ヶ谷駅の改札を出て駅前を眺めた。時刻は丑三つ時という頃だろうか。驚くほど静かで何も変わっていなかった。世界的大事件が起こるかもしれないと言われていたが淡々と2000年が始まっていた。
半ば呆然と深夜の町を歩きながら帰路につく。なんだか変な疲労に襲われていた。

 

ふと頭によぎった言葉。2000年問題

 

甲野 功

 

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