開院時間
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東京都では再び新型コロナウィルス感染者が増えてきています。
経路がはっきりしているためコントロールできるという説や重症化する症例だけ気を付けておけばいいといった楽観的な見方と、東京都の感染者が県外に広めているので東京都の出入りをやめるべきだという意見。色々と意見があり、混乱と不安がある状態です。加えて各地で大雨による被害があります。今後も経済的なダメージが全国を襲いそうです。
天災もさることながら、観光客が訪れない観光エリアは本当に大変だと思います。春休みもゴールデンウイークも潰れたことになり、夏休み期間も減少。更には長距離移動を封じられてしまっては打つ手がないかもしれません。
世界的に有名な観光エリアである京都でさえ閑散としているといいます。
京都は大好きな場所でこれまでに何度も訪れています。今年の4月にも行く予定でした。ここ2年連続で夏に京都を訪れていたので、夏には京都に行って少しでも支援になればと考えていたのですが、風向きが怪しくなってきました。京都の風物詩である各種お祭りや神事が中止になるというニュースを聞くとなんとか踏ん張ってほしいなと願うばかりです。
今回は数年前に訪れた、京都でも有名な神社松尾大社を紹介します。神頼みの意味合いも込めて。
前々から松尾大社の名前はよく耳にしていました。千年の古都、京都においても知名度で上位に位置する神社だと思います。
松尾大社に興味があったのは秦氏との関係があるからでした。
秦氏(はたし)とは大陸から渡来した豪族で日本に多くの技術や知識を持ち込んだとされる一族です。とにかく凄い技術をもった集団だったようで、我が国に与えた影響は計り知れないそう。そして歴史的にはとても信じ難い伝承を持つ謎の一族です。
同じ秦の字を持つ「秦の始皇帝」の末裔だと語ったとか。秦の始皇帝は紀元前の時代で、秦氏が日本に来たのは五世紀頃といいますから数百年の開きがあって少々無理があります。そして普通は秦(しん)と読むところを何故か秦(はた)と読ませる。極め付きは太秦とかいて(うずまさ)と読む京都の地名。京都との関連性を考えると太秦と秦氏は関係しているように思われるのですが、どういう経緯で太秦でうずまさと読むようになったのでしょう。謎が多い一族です。
以前から秦氏の謎について本を読んでいたので、秦氏と関連が深いとされる松尾大社に一度行ってみたいと思っていました。松尾大社ホームページの由来に関する部分に秦氏との関係が記載されています。
ホームページより抜粋
『
[秦氏来住]
五世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦(はた)氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております。
[秦氏の開拓]
伝説によると……
……「大山咋神は丹波国が湖であった大昔、住民の要望により保津峡を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山(あらしやま)となった。そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。そこでこの神は山城・丹波の開発につとめられた神である。」……
これらの記述は、秦氏がこの大山咋神のご神威を仰ぎつつ、この地方一帯の開拓に当たったことを示すものと言えます。
[大堰と用水路]
秦氏は保津峡を開削し、桂川に堤防を築き、今の「渡月橋」のやや少し上流には大きな堰(せき=大堰→大井と言う起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったと伝えられております。その水路を一ノ井・二ノ井などと称し、今現在も当社境内地内を通っております。
[酒造神]
農業が進むと次第に他の諸産業も興り、絹織物なども盛んに作られるようになったようです。 酒造については秦一族の特技とされ、秦氏に「酒」のという字の付いた人が多かったことからも酒造との関わり合いが推察できます。
室町時代末期以降、当松尾大社が「日本第一酒造神」と仰がれ給う由来はここにあります。
[平安京誘引]
時代と共に経済力と工業力を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも秦氏の膨大な勢力によるものであったことが定説となっております。
[神殿の造営]
文武天皇の大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕し、この子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(東・南とも称した)です。
[松尾社と平安遷都]
上代において秦氏を始めとする山城・丹波の住民から、農産業、土木工業の守神と仰がれた当社は、平安時代以降朝廷の守護神とされるに至りました。桓武天皇は延暦3年(784)11月、都を長岡京(現在の京都府長岡京市)に移されると、勅使を派してこれをご奉告になり、まもなく平安京に都を移されると、当社と賀茂神社とを皇城鎮護の社とされ、賀茂の厳神、松尾の猛霊と並び称されて、ご崇敬はいよいよ厚く加わるに至りました。
』
これを読むと秦氏は治水工事に酒造、平安京遷都にも関わったとされています。渡来人、すなわち外国人でありながらこれだけ中枢に入って力を持つというのは奇妙です。都が平安京を移ると加茂神社と並ぶ格式となったとあります。加茂神社とは以前紹介した上賀茂神社、そして下加茂神社のこと。あの加茂神社と並ぶというのですから相当なものです。
境内に入ると広大な敷地に松尾大社はありました。
社殿も豪華でしたが特に庭園が目を引きました。松風苑三庭といい上古の庭、曲水の庭、蓬莱の庭とあります。巨石による遺跡のような風景が広がり、ホームページによれば“地上に残す最高の芸術作品”として作られたといいます。現代庭園としての価値も相当なもののようです。
他にも山道を入ると磐座があり人工物がない分神域であることを感じさせます。また霊亀の滝は何かが居そうな雰囲気でした。
京都の中心地から少し外れていますが訪れると面白いところだと思います。
京都にはまだまだ行ってみたい神社やお寺があります。京都に限らず日本全国に。
また気兼ねなく国内旅行が行ける日を待ち望んでいます。
天災にも疫病(新型コロナウィルス)にも負けないように。各地の神社参拝をしてみたいのです。
甲野 功
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