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杉山和一(すぎやまわいち)。江戸時代に実在した鍼師、按摩師です。
日本で鍼灸師になったのならば誰もが知る歴史上の人物。日本独自の管鍼法(かんしんほう)を発明したとされています。
※杉山和一以前にも管鍼法はあったという説もあるので「されたとします」と表記しますが、一般的には杉山和一が創始者となっています。
管鍼法は中国、韓国では基本的に行われていません。韓国人、中国人でも管鍼法を使う鍼師はいるでしょうが、元々の鍼術に細い管を用いることはなく、鍼を手に持ってそのまま一気に皮膚に刺します。
日本では専門学校で標準技術として管鍼法を習いますし、日本で使用される鍼のほとんどが管鍼法用。
今日の日本鍼術における大きな特徴の一つが管鍼法であり、杉山和一なくして今の状況は無かったことでしょう。
鍼師として神社(江島杉山神社)に祀られている唯一の存在が、杉山和一であります。
これまでこのブログで何度も取り上げてきた杉山和一ですが、
『杉山和一と鍼術』
について改めて書いておきます。
杉山和一は慶長15年(1610年)に生まれ、元禄7年(1694年)まで生きました。84歳まで生きたことになり、太平の世と言われた江戸時代でも長生きだったと思われます。
武家の家系に生まれるも幼い頃に病で失明します。
武家に生まれながら鍼の道に進んだのは視力を失ったことによるものです。
現代でもそうですが失明した人間が仕事をしていくには大きなハンディキャップがあります。人間は情報の80%を視力から得ると言われるほど。失明するということは大変なことです。江戸時代よりも前から視覚障害者の仕事は鍼師、按摩師、琵琶演奏者など限られていました。失明した杉山和一が鍼の道を志すのは自然のことだったのでしょう。
杉山和一は最初から鍼の名人だったわけではありません。
最初に弟子入りした先では器量が悪く破門にされてしまいます。失明し何とか生きるために入門したところを破門にされるということですから、相当出来損ないだったのでしょう。
失意の杉山和一は湘南にある江ノ島にいき、弁財天の岩屋に篭もり修行を行います。その帰り道に石につまずき倒れるのですが、そのとき手に拾った松葉の入った管から管鍼法の着想を得たという逸話が残っています。その石は福石と言われて今でも江ノ島で史跡として残っています。
その後、京都に行き入江流などを学びます。再び江戸に戻り開業すると名人と評判になり、検校という盲人(視覚障害者)の最高位になります。時の江戸幕府五代将軍徳川綱吉に召し抱えられて治療をしました。杉山和一を大いに買った徳川綱吉公は「鍼治振興令」を出して鍼術を推奨しました。その結果、江戸の市井では鍼が流行ったといいます。
綱吉公からの信頼は厚く、本所一ツ目という土地を拝領しました。これは将軍から褒美を取らせるから何が欲しいと聞かれて、「一つでいいから目が欲しい」と杉山和一が答えたところ、視力を戻すことができない将軍は一ツ目という土地を与えるという苦肉の策を講じた結果だと言われています。
杉山和一は鍼術再興のために鍼術講習所である「杉山流鍼治導引稽古所」を開設します。そこから多くの優秀な鍼師が誕生しました。
このように武家の出自でありながら、失明を機に刀を捨てて鍼の道を志し、管鍼法という発明をし、江戸で開業して大成功。時の最高権力者たる徳川将軍の信頼を得て鍼術の普及に努めたのです。
私は鍼灸専門学校の頃に「管鍼法の創始者」という一面を強調されて杉山和一のことを覚えましたが、臨床家としても有名であり、江戸時代に世間へ鍼を広めるきっかけを作った人物でもあるのです。
このことを知ったのは割と最近で私自身があじさい鍼灸マッサージ治療院を開業してから何年も経過してからでした。
今の日本で鍼師が職業としてやっていけるのは杉山和一のおかげでもあります。
明治維新から文明開化のときと太平洋戦争の戦後に、日本の鍼術が、東洋医学が、廃れそうになったときに踏ん張った先人達とともに、後世に伝えていかないといけない偉人であります。
杉山和一は死後もその偉業が認められて大正3年(1924年)に正五位が追贈されています。没後370年も経過してなお認められるという。杉山和一の功績については東京両国にある江島杉山神社境内、杉山和一記念館でみることができます。
我が国には江戸時代を生きた杉山和一が残した鍼術の遺産が今でも生きています。令和の現代で鍼師を業とする私はそのことをしっかり胸に刻み込んでおきます。
甲野 功
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