開院時間
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江戸時代に実在した杉山和一(すぎやまわいち)。
管鍼法の創始者といわれ、現在は両国の江島杉山神社の御祭神であり鍼師で唯一神社に祀られている人物です。
杉山和一は武家の家系に生まれるも幼少期の病で視力を失い、鍼師の道を志します。その後鍼師として有名となり時の将軍徳川綱吉にも鍼をするほどに。盲人の最高位である検校の地位を得ます。死後数百年経った大正時代に、その功績が認められ正五位が追贈されました。
江戸時代の徳川将軍といえば、令和の現代では内閣総理大臣にあたるのでしょうか。国の実務最高責任者にも鍼をするほどの人物でした。管鍼法は日本のオリジナルと言える鍼術の技法であり発明。
最初のうちは鍼灸師である私には鍼師としての功績が目立っていました。
しかし本当に評価されることは盲人・視覚障害者を支援する道筋を築いたことにあると思います。
杉山和一自身も視力を失った盲人(視覚障害者)。盲人として上り詰めただけでなく、同じ盲人のための施策を行ったのです。その働きは世界的にも評価される功績であります。
今回は杉山和一が行った盲人・視覚障害者を支援する取り組みについて書いていきます。
現代もそうですが江戸時代の視覚障害者の生業において、按摩師(国家資格免許としての職業は「あん摩マッサージ指圧師」)と鍼灸師は外せません。
按摩(あん摩)とは中国で発祥し、江戸時代に日本で発展した徒手療法。衣服の上から行うもので、世間一般で「いわゆるマッサージ」と認識されているものです。国家資格のマッサージは滑剤(オイルやパウダーなど)を用いて肌に直接触れる明治時代にフランスから取り込んだ技術を指します。今も「あんま」という言葉は視覚障害者を侮蔑するものとして放送禁止用語になっているとも言われています。
鍼灸師も古くから視覚障害者ができる仕事としてありました。視覚障害者といっても視力の程度によりますので、完全に視力が無い状態ではお灸は厳しいものがあります。よって按摩と鍼がメインになります。
現在も理療科といって視覚障害者が学ぶ学科でもあん摩マッサージ指圧師、鍼灸師を所得するカリキュラムが整備されています。そのシステムを遡ると杉山和一に繋がります。
江戸幕府5代将軍徳川綱吉に鍼を施して信頼を得た杉山和一。綱吉の出した鍼治振興令をうけて、鍼・按摩技術の取得、教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設である「杉山流鍼治導引稽古所」を杉山和一は設立します。ここでは教育段階が分かれており、初期教育(18歳位まで)では按摩・鍼を各3年(計6年間)の基礎教育を行います。その後、中期教育(~28歳位)、後期教育(~32歳位)、最終教育(~50歳位)と続いたといいます。
現在の厚生労働省認可のあん摩マッサージ指圧師、はり師(鍼師)を取得するための最低勉強期間が3年間ですから江戸時代から今と似た学習時間です。なお、現在の3年間というのは晴眼者(視覚障害のない健常者)の話で、あん摩マッサージ指圧と鍼灸を同時に勉強し、3年間でどちらの資格を取ることができる学校もあります。反対に盲学校(理療科)ではもっと時間がかかる場合もあります。
杉山流鍼治導引稽古所で按摩・鍼に各3年間をかけるというのは納得できる話です。
重要なことは杉山流鍼治導引稽古所が世界初の視覚障害者教育施設であること。障害者に教育と職業訓練をする施設はここが初めてと言われています。
聴覚障害があり話すことができない人向けの聾学校。世界初の聾学校は1760年のパリでレぺが創立。同じくパリでアユイが視覚障害者への特別教育をしたのが1784年といいますから杉山和一の杉山流鍼治導引稽古所がいかに早かったかわかります。
杉山和一が江戸時代に盲人へ鍼・按摩の教育を行い、盲人の職業として鍼・按摩を定着させたことが、明治時代に入り盲学校設立後の職業教育に鍼・按摩が取り入れられた経緯に繋がったといわれているのです。
杉山和一は自身が盲人であったこともあったからでしょう。盲人教育そして職業を得て自立して生きていける道筋を作ったと言えるのです。
現在の視覚障害者もそうですが、マッサージ(あん摩)を習得することは必須のようなもの。盲学校に入学すれば学ぶことが当たり前ということもあるようです。
2018年R-1ぐらんぷりで優勝した盲目の漫談家濱田祐太郎氏はあん摩マッサージ指圧師、鍼灸師です。視覚特別支援学校に進学し資格を取っています。マッサージの仕事をしてNSC(吉本のタレント養成所)の授業料を貯めたとか。
我が国に根付いた視覚障害者支援制度は海外の人にも希望を与えています。
スーダン出身のアブディンさんは全盲ですが母国の大学まで進学します。しかし国の内乱(のちにスーダンは分裂。2011年に南スーダンが誕生します)により勉強が困難に。そのときに日本では視覚障害者に職業訓練を行いかつ資格を取らせてくれる制度があることを知ります。アブディンさんは視覚障害者に医療行為ができるなど信じられないと思ったそう。
彼は試験を突破し来日、福井県で勉強し鍼灸師免許を取ります。その後東京外国語大学で研究をし、来年開催予定の東京パラリンピックブラインドサッカー日本代表入りを目指しています。
<五輪のために8㎏減。スーダン出身の41歳、アブディンがブラインドサッカー日本代表入りを諦めない理由>
これは、杉山和一が作ったシステムが現在まで残り、かつ海外の視覚障害者にも門扉を開いた結果でしょう。特筆すべきことではないでしょうか。
杉山和一は当道座の再編にも力を入れたといいます。
当道座とは男性盲人の自治的相互扶助組織の一つです。詳細は省きますが元々は平家物語を語るいわゆる平曲を得意とした琵琶法師の集団から始まったそう。当道座には位があり最高位の「検校」から順に「別当」、「勾当」、「座頭」とありました。杉山和一は検校の地位についていたため杉山検校と称されることもしばしあります。映画「座頭市」の座頭もこの位のことだそう。細かくは73段階に分かれており官位を上げるには手続きが必要でした。
杉山和一の時代、当道座の本部は京都の職屋敷にあり総検校が全国を統率していたので、盲人官位の取得のためには京都に赴く必要がありました。杉山和一は元禄の頃に関八州の当道盲人を統括する惣禄検校となり制度を改訂します。これ以降、関東の盲人は京都まで行くことなく江戸で盲人官位の取得が出来るようになったのです。
盲人(視覚障害者)にとって長距離の移動は健常者以上に大変なことです。杉山和一は手続きを便利にしてくれました。
他にも江ノ島道沿いに道標を建てました。その数48基と言われております。同じ規格で作られて右面に「一切衆生」、左面に「二世安樂」と彫られています。一般のものより彫りが深くなっており、これは視覚障害者のためなのだとか。
現存するものは少なく、藤沢市の江ノ島弁才天道標12基は昭和41年に市指定重要文化財に指定されました。年老いても江ノ島弁財天へのお参りを欠かさなかったという杉山和一らしい話です。
明治4年に政府は盲人官職を廃止し本所一ツ目の江戸惣録屋敷も没収されることになります。しかし江島神社として残ることとなり、昭和時代に現在の江島杉山神社になるのです。令和の現代にも受け継がれて残っているのは杉山和一の功績が関係しているのではないでしょうか。
鍼灸師であん摩マッサージ指圧師である私には鍼・按摩の達人という面が印象深い杉山和一。しかし真の偉業は視覚障害者を支援する施設を創設し、支援するシステムを構築したことにあるのでしょう。
鍼灸専門学校時代にある教師に、あなた方は将来失明しても生きていける技術を身につけているのですよ、と言われたことがあります。先天的なもの、幼少期の病気だけが視覚障害をもたらすものではありません。生活習慣病や各種疾患・事故で視力を失う、著しく低下する可能性は誰もがあります。視覚障害を持ったときに生業としてやっていけるものを日本に根付かせてくれた功労者の一人が杉山和一なのです。
今回、杉山和一の功績をインターネット中心に調べました。不確かなこと、本質は別にある情報もあることでしょう。まだまだ浅い知識です。しかし調べてみてとても良かったです。来年は東京パラリンピックが開催される予定で視覚障害者の選手も出場するはず。鍼の名人とは別の杉山和一を知ることは意義があると思います。
甲野 功
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