開院時間
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前回に引き続きフジテレビで放送された<世界の何だコレ!?ミステリーSP【日本のナゾ大調査&仰天!何だコレ映像】>より。その放送では『上野公園に400年続く立入禁止エリア!家康ゆかりの黄金場所&慶喜の禁断(秘)部屋』という内容があり、上野恩賜公園内にある立ち入り禁止を紹介していました。
「家康ゆかりの黄金場所」が上野東照宮社殿の中でした。そして「慶喜の禁断(秘)部屋」というのが寛永寺の通称“葵の間”になります。番組で紹介された寛永寺根本中堂を紹介します。
これまで何度か上野恩賜公園内にある寛永寺関連の史跡を紹介しましたが、改めて寛永寺について説明します。
寛永寺はその名前の通り寛永2年(1625年)に創建された天台宗のお寺。京都では御所からみて鬼門の方向(北東)に比叡山延暦寺を置いて守っていますが、それに倣い江戸城から鬼門にあたる場所に置いて守る目的でできました。東の比叡山ということで東叡山。徳川家康の側近であった天海僧正によって創建されました。
現在、天台宗の三大本山の一つに数えられ(残りは平泉中尊寺、長野善光寺)、それらの上に比叡山延暦寺が位置する形となっているそうです。
今回紹介する寛永寺の本堂にあたる根本中堂は上野恩賜公園の中でも外れに位置し、上野駅からも遠く目立たない場所にあります。東京芸術大学の先にあり、観光客も比較的訪れないようです。しかし歴史的背景を踏まえるととても重要なものだと分かります。何より江戸時代「寛永寺」とは根本中堂と子院の総称でした。根本中堂が中心だったのです。
現在の上野恩賜公園は元は寛永寺の境内でした。当時これほど広大な土地を有していたわけです。
幕末になり15代将軍徳川慶喜は薩摩・長州を筆頭とした討幕軍に対して交戦の意思が無いことを示すために江戸城を出て寛永寺に立てこもります。歴史でいう絶対恭順というものです。そして薩摩西郷隆盛と幕府勝海舟との会談により、江戸城は無血開城され江戸の町が火の海なることが免れました。
しかしそれをよしとしない彰義隊が寛永寺に陣を置き、新政府となった討幕軍と戦います(上野戦争)。幕末の江戸で起きた唯一の戦闘が寛永寺境内で行われ、焼け野原になりました。
明治の世になり焼け野原となった寛永寺境内は再活用することになり公園、駅、博物館、動物園など近代的に生まれ変わります。また京都を模して造られており不忍池を琵琶湖に、清水寺を清水観音堂に見立てました。
根本中堂は元禄11年(1698年)に今の上野恩賜公園公内大噴水がある場所に建立されました。慶応4年(1868年)上野戦争で焼失し、明治12年(1879年)に川越喜多院の本地堂を現在の場所に移築再建されたものです。なお喜多院も天海僧正に縁のあるお寺。本尊は薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏として(非公開)祀っています。
境内には徳川家の三つ葉葵の紋をあしらった灯篭や鬼瓦、銅鐘があります。
本堂裏には書院がありここにある葵の間で徳川慶喜は謹慎しました。
歴史の節目、戦場となった上野寛永寺。その境内は動物園、博物館、美術館、大学、公園、駅などと近代施設に姿を変えました。そして世界文化遺産になるほど価値のある建築物が並びます。歴史にもしもは禁句ですが江戸で大規模な戦争が起きていたら今の東京は姿が変わっていたことでしょう。そう考えると上野の隅にある寛永寺根本中堂を見る目が変わってきます。
甲野 功
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