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先週、東京神田の奥山ダンススクールに行き大学の後輩である三森秀明・酒井良美組に会いに行きました。
三森秀明・酒井良美組は二人ともALL東京理科大学舞踏研究部(以下、理科大舞研)出身で、現役選手では唯一の男女両方が後輩にあたるプロ選手になります。しかも学年が2学年下で私が大学3年生のときに入部した代になります。
三森選手、酒井選手はともに同学年。大学は違えど同じ年に入部した正真正銘の同期。我々は学生競技ダンス連盟(以下、学連)という社交ダンスを競技として行うに団体に所属していました。学連はプロともアマチュアとも異なる独自の世界を築いており、特殊な環境下で選手が育っていきます。その当時はそれが当たり前のことでしたが、卒業してみると非常に稀有な環境だったと分かります。
競技ダンスの世界は主に10種類のダンスがあります。スタンダード5種目(ワルツ、タンゴ、スローフォックストロット、クイックステップ、ウィンナーワルツ)、ラテン5種目(チャチャチャ、サンバ、ルンバ、パソドブレ、ジャイブ)です。全てを踊る選手を10ダンサーと呼びます。幼少期から社交ダンスをする人やプロでは普通なのですが、学連ではスタンダードかラテンかのどちらかを専攻しそれを極めるようなシステムです。
ウィンナーワルツとジャイブは学連公式競技会では行われないため、実質4種目を練習していくことになります。更にレギュラー戦と言われる出場選手の部歴にとらわれない大会では基本的に1カップル2種目までなので、得意な2種目に絞って競技会に出ることが珍しくないのです。更に冬に行われる最大規模の全日本学生競技ダンス選手権大会(通称、冬全)は1種目しか出場することができないため、究極は1種目を追求するような感じになります。なぜならば4年生の最後の冬全で優勝することが多くの学連選手にとっての目標になるからです。
このような環境はアマチュアにもプロにもなく、競技クラス(レベル)が上がれば5種目で勝負するのが常。まんべんなく練習するので種目を絞るという考えはほぼありません(得手不得手はあるでしょうが)。学連は4年間という限られた期間であるからこそのシステムなのかもしれません。
また学年ごとの縦横の関係性がとても影響することも特徴です。学連特有の言い回しで親代とか子代という概念があります。1年生からみた3年生、あるいは2年生からみた4年生を“親代”といい、反対に2学年下の下級生を“子代”といいます。これはある大学が行っていた親子制度と言われる3年生が1年生を、4年生は2年生を、責任を持って面倒をみるというものが他大学にも浸透したものです(私や三森酒井組が学連にいたときには理科大舞研には浸透していなかった風習でした)。
親子制度に照らし合わせると私にとって二人は子代。入部当初基本のステップや部のシステムを教えたものでした。疑似的な親子関係のようなものがありました。
三森選手は私と同じモダン専攻(スタンダードを当時はモダンと呼んだ)。特に繋がりが深かったのです。なお酒井選手はラテン専攻。1年生まではモダン・ラテン両方練習して大会に出て2年生から専攻分けするのですが、だいたい1年生の内から希望する専攻種目を集中して練習するので本当に最初の方しか酒井選手には教えた記憶がありません。三森選手は1年生の夏以降モダン種目に専念して練習していました。
当時の理科大舞研はとにかくモダンが弱小でした。ラテンの方はスター選手を排出し、その人に憧れてまた下の世代の有望選手もラテンに進むという流れ。この時代の理科大舞研は完全に個人の意思を尊重したため、モダン専攻の人数に対してラテン専攻は3倍の人数がいるくらいでした。今では偏らないように調整するのでこのような人数差がつくことはないのですが。
こういってはあれですがラテンができない部員がモダンに進むような雰囲気がありました。かくいう私も1年生の夏でラテンをするのは無理だと判断しモダンに決めました。これまた失礼な話ですが三森選手は当初落ちこぼれ部員だったのでモダンが引き取り、有望だった酒井選手はラテンに進んだというのが実情です。
現在では、理科大舞研はプロ選手を多数輩出しており現役選手として活躍するそのほとんどがモダン(スタンダード)専攻の選手です。現時点で団体の違いがありますがA級(トップランク)のプロ選手は9名で、B級を含めれば二桁に。学連の大会でも全日本優勝や東部、東都優勝者を多数輩出しています。
しかし我々の頃の理科大舞研はモダン勢が少ないうえに弱いというまさにモダン弱小校でした。何せ私が3年生の春、東都戦という大会で準決勝に入賞したときは理科大舞研4年ぶりの快挙でした。つまり現役部員は誰もレギュラー戦のモダン種目で賞状を獲った姿を知らないという状態。そのような時期に入部してきたのが三森選手でした。
他校からもラテンは有名だけど、モダンは誰も知らない、同じヒート(踊る組)に理科大がいると(どうせ理科大が落ちるから)ラッキーと思う、などと言われていました。口には出されなくとも団体成績はモダンが足を引っ張っているとラテン勢に思われていました。そのためいつか見返してやろうという気持ちが強かったです。特に私や一つ上と一つ下の代は。
組んでいる相手が辞めることになりカップル解消することが決まった3年生の夏。選手生命が一度断たれるとなったら、自分の未来を三森選手に掛けようという気持ちで、彼を教えていました。自分にはできなくても一つ下の代、そして二つ下の三森選手達がラテンを超えて理科大舞研を強豪校にしてくれると願って。
当時は執念に近い感情でした。決して自分のせいではないはずなのに1年間練習して競技会に出てきたパートナーがいなくなる。やっと入賞できるくらい結果が出てきた頃なのに。自分の夢は三森が成し遂げてくれるはずという想い。数年後にはモダン弱小校の汚名を返上してラテンよりも上位の成績を出してやると。
間違ってもエリートではなかった三森選手は日々の練習を重ねて着実に実力をつけていきます。その成長は想定を超えたスピード。2年生になる頃にはもう4年の自分よりも上に行ったなと感じるほどに。三森選手が最終学年となる4年生のときに偉大な記録を出します。それが夏の全日本学生選抜競技ダンス選手権大会(通称、夏全)モダン総合準優勝。
書いた通り、学連は単種目勝負が強い世界なのですが、夏全は唯一の4種目総合のレギュラー戦です。春の大会で各ブロックの団体上位校が選抜されて出場権を取る大会。理科大舞研は東部ブロックなので東部日本戦で団体18位に入らないと出場することができません。当時は夏全出場権を取ることすら厳しく、私が2、3年生の時は出場できませんでした。
夏全の歴史は比較的浅く、4種目総合で学生個人日本一を決めるために作られたといいます。4種目総合であるためまんべんなくうまくなければ勝ち上がることは不可能であり、理科大舞研の歴史においてモダン部門で夏全の決勝まで残った組は片手で足りるほど。単種目の冬全に比べて圧倒的に勝ち上がることが難しいのです。
その夏全において三森選手は準優勝という快挙を成し遂げるのです。なお未だに理科大舞研で三森選手の夏全準優勝の記録を破った者はおらず、当時はもちろん今でも偉業といえる成績なのです。
遡る事2年前。私の同期が理科大舞研初めての夏全ラテンチャンピオンに輝きます。同じ時期に同じ環境でダンスを始めた同級生が学生日本一になる姿をみて圧倒的な差を感じました。それから2年でモダン弱小校だった理科大舞研から夏全準優勝を出せるとは。そして三森選手は学連最後の大会である4年生の冬全においてクイックステップ準優勝という成績を残して卒部します。全日本2大会連続準優勝という記録を打ち立てました。日本一にあと一歩届かなかったとみるか、よくここまで成長したとみるか。
三森選手は理科大舞研を卒部後にラテン専攻だった酒井選手と組み、アマチュア競技会で訓練を積んだ後にプロ選手に転向します。そしてプロA級まで成長しました。数年前から数多くの学連選手を教えて三森先生・酒井先生という立場に。母校に限らず多数の大学の選手を指導し今や名コーチャーになりました。
そして今年2021年。三森酒井組の教え子が夏全を制覇したのです。奇しくも三森選手当人が準優勝という夏全からちょうど20年後に。既に二人の教え子から冬全優勝者を出していたのですが、遂に夏全チャンピオンを育てたのです。学連出身者にはこの素晴らしさが分かるはず。学連選手のコーチャーとしても超一流になったと言えるでしょう。
20世紀末、本当に低レベルなモダン弱小校だった理科大舞研から始まった競技ダンス人生。二人がここまでになるとは。野球では名選手が名監督とは必ずしもないように、プレイヤーとコーチャーの能力はまた違うはずです。競技選手だけでなく指導者としても成績を残したことに感激しました。
甲野 功
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