開院時間
平日: 10:00 - 20:00(最終受付19:00)
土: 9:00 - 18:00(最終受付17:00)
休み:日曜、祝日
電話:070-6529-3668
mail:kouno.teate@gmail.com
住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202
今年から新宿区のお寺や神社も別に紹介しようと思っています。
まず一回目は治療院からとても近くにある経王寺です。
場所は都営大江戸線牛込柳町駅南東口から大久保通りに出て大久保方面に坂を登っていきます。スーパーよしやを通り越してサイゼリヤの入り口に進む階段を通り越すと、すぐに左側に石の階段が見えてきます。階段を上ったところが経王寺です。大久保通りの坂の途中に階段の先、見上げるとお寺が見えます。
経王寺は日蓮宗のお寺で400年の歴史があります。慶長3年(1598)に現在の新宿区市谷田町で尊重院日静上人という僧によって開創されました。日静上人は越中国(富山県)または甲斐国(山梨県)の人で、寛永7年(1630)7月17日に亡くなられました。日法上人作の大黒天像を身延山から江戸に移し、経王寺に安置しました。
明暦3年(1657)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火(振袖火事)がきっかけとなり、寛文5年(1665)頃から江戸城を火災から護るための工事が着工されたため、寛文8年(1668)に経王寺境内地は「御堀御用地」となり、市ヶ谷川田久保町に移転するのです。
享保10年(1725)に火事により経王寺は焼失しましたが享保14年(1729年)頃までにお堂が再建されました。
幕末になり明治維新が成り明治新政府が樹立すると、神仏分離令が発令され全国に廃仏毀釈運動が広まります。廃仏毀釈令は多くのお寺や仏像が破壊されましたが経王寺は守られます。
しかし明治10年(1877)4月12日に経王寺は火災に遭いお堂はまたもすべて灰となります。その後、再建されて今に至るといいます。
その歴史は幾度と火災に遭ってきたといえます。そのたびに復活してきたところが面白いです。
経王寺と言えば大黒天像です。日蓮の高弟(中老僧)である日法上人が作った大黒天像。それを約400年前に身延山久遠寺からに経王寺に移したのです。何度も火災に見舞われた経王寺において、消失することなく現在まで残っています。その軌跡から「火伏せの大黒天」と呼ばれているとか。昭和60年(1985年)に新宿区指定文化財に指定され、山の手七福神の一つでもあります。
それ以前から、江戸時代の元禄年中(1688~1703)の頃に経王寺の開運大黒天として世に知られていたといいます。大変めでたいものですね。60日に一度訪れる甲子日(きのえのねのひ)に大黒天像が御開帳されます。甲子日は一年に6回あるので六甲子といいます。六甲子の日は大黒天祭りを経王寺で開催されているのです。
他に歴史的なエピソードでいうと感應寺廃寺事件で自害した畳屋太兵衛の墓が境内にあります。
今の目白台にあたる雑司が谷鼠山に豪華な日蓮宗感應寺が建立されました。感應寺はときの将軍11代徳川家斉の還暦祝賀のために造られましたが、保の改革天の一環としてこの政治的背景により廃寺と決まります。これが感應寺廃寺事件です。この当時、熱心な日蓮宗信者であった畳職人である小嶋太兵衛(畳屋太兵衛)はこの感應廃寺事件に抗議し再建を訴え続けたのでした。しかし、その訴えは取りあげられません。そして文久3年(1863)に、畳屋太兵衛は菩提寺であった経王寺本堂で愛用の畳包丁で割腹自害したのです。殉教者畳屋太兵衛之墓という石碑とともによしやを背にしています。
小さな境内ですが仏像がたくさん並んでいます。大黒天にお地蔵、観音菩薩、福寿地蔵。ちょうど仏様の誕生日の頃にはしだれ桜が咲いています。
9年間子ども達を保育園に連れて行くため経王寺の前を通ってきました。近すぎて気に留めていなかったのですが、きちんと見てみるととても興味深い、歴史ある境内です。牛込柳町駅に来たときは駅からすぐなので足を運んでみてください。
甲野 功
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