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新宿区の神社、お寺を紹介する回です。
今回は抜弁天こと厳島神社の紹介です。厳島神社というと広島の宮島を想像すると思います。少なくとも私はそうです。新宿区に厳島神社?という感じですが、「抜弁天」というとあああそこかと納得します。
一般社団法人新宿観光振興協会ホームページ 厳嶋神社(抜弁天)
場所は都営大江戸線・東京メトロ副都心線東新宿駅と都営大江戸線若松河田駅のほぼ中間地点くらいの場所にあります。信号にも抜弁天の表記があり、地元では厳島神社より抜弁天の方がよく知られています。大久保通りから若松河田方面に分かれる抜弁天通り。そこに余丁町通りが繋がるのですが、ちょうど二又に分かれたところにこの神社があり、境内を通り過ぎると抜弁天通りから余丁町通りにショートカットできます。文字通り通り抜けられるのです。
神社としては非常に小さい方で鳥居が2基、各通り側の境内への入り口にあります。社殿の前にもう一つ鳥居があります。池があり鯉が泳いでいます。周囲をビルに囲まれて都会にポツンとある感じがします。社殿の後ろには高いビルが見え、すぐ後ろには建物が控えています。規模としては本当に小さな神社ですが、山の手七福神弁財天が祀られているためその存在感を示しているとも言えます。
その由緒や歴史を調べてみると興味深い事実が浮かび上がります。
その由緒はかなり古いもので源義家が祈願したのがこの厳島神社だとか。旧鎌倉街道が近くを通っていたためその伝説があるそうです。
応徳3年(1086年)、鎮守府将軍源義家が後三年の役で奥州平定に向かう途中、富士山を眺望したこの場所に宿営しました。後三年の役とは1083年~1087年に奥州で発生した戦いで、奥州を実質支配していた清原氏の内紛に源義家が介入した事で始まり、清原氏を滅亡に追いやった戦いです。これにより奥州藤原氏が登場するきっかけとなりました。源義家はこの戦いの帰途にこの場所に戦勝のお礼として厳島神社から祭神を勧請して創建したといいます。まさかの鎌倉時代よりも前からその歴史があるという。この厳島神社は安芸(広島)の厳島神社であり、どちらかというと平氏、平清盛に関係が深い神社。平氏と源氏の関係を考えるとなかなか面白いと思います。
御才神はもちろん弁財天。日本神話の女神で水の神様でもある市杵島姫命が習合したもの。境内が南北方向に通り抜けできることや苦難を切り抜けられる弁天社ということで抜弁天として庶民から信仰されました。江戸時代の地誌『大久保絵図』には、厳島神社は「別当二尊院・抜弁天」と記されています(※別当とは神社を管理する寺の事で二尊院は明治の神仏分離、廃仏毀釈令でなくなりました)。この弁財天が江戸六弁天、山の手七福神の一つに数えられるようになりました。現在も源義家の厳島神社の印象よりも弁財天を祀っている方が強いわけです。個人的な感想ですが日本人は弁財天が好きだなと。
またこの土地は、かの有名な生類憐みの令(1687年、徳川綱吉により発布)で大久保の犬御用屋敷があった場所。教科書で習った内容と関りがあるのです。今のコンクリートに囲まれた状況では想像がつきません。
一時期そばにある西向天神社の境外末社になりましたが独立し兼務社となっています。そのため御朱印が欲しい場合はこの西向天神社で頂くことになります。
近代になると昭和20年(1945年)の東京大空襲によって社殿が焼失します。戦後しばらくした昭和35年(1960年)に現在の社殿が再建され境内整備も行われます。なお手水石は元禄16年(1703年)のものが現存しているとのこと。
その存在は幼少期の頃から認識していましたが一体どのようなものなのか最近まで知らなかった抜弁天こと厳島神社。気を付けないと見過ごしてしまうくらいこじんまりとしています。新宿方面から自動車で進むと飯田橋方面に行くか曙橋方面に行くかの分岐路に抜弁天があり、抜弁天のところを右に行くか左に行くかは大切です。ちょっとした道路の要所とも言えます。知る人ぞ知る場所です。
甲野 功
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