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先日はプロ野球選手に対する折鍼事故について書きました。なぜ体に刺した鍼が折れてしまったのか。その直接の要因に抜鍼困難があります。そもそも刺した鍼が抜ければこのようなことは起きませんでした。折鍼の原因は幾つかありますが、まずは抜鍼困難という状況を防ぐことが重要だと思います。折鍼がアクシデントであるとすれば抜鍼困難は“ヒヤリハット”。結局鍼が抜ければ「ひやりとした」「はっとした」で終わったこと。今回は鍼施術における抜鍼困難について書いていきます。
抜鍼困難は専門用語で「渋鍼」という言葉で表すことがあります。これは刺した鍼が抜けない、あるいはより深く刺入できない、など鍼が動かない状況を示します。原因は、刺した鍼に筋線維が絡みつくか強い筋収縮が起きているか、あるいはその体内で鍼が曲がってしまっているか。他にも不可抗力や製品の不具合など考えられることもありますが可能性は低いと思います(例えば刺鍼中にMRI級の強力な磁力に晒されて鍼が動いたとか、あまりに粗悪な製品で刺した後に体内で変形してしまったとか)。
渋鍼のポイントは筋肉、筋力です。体内に刺入した鍼に加わる外力はほとんど筋肉によるものだけでしょう。渋鍼、抜鍼困難に陥るのは腰部へ刺鍼がほとんどです。腰に鍼を刺して抜けなくなるというのが大部分だと思います。というより腰の鍼以外で抜けにくくなったという例を私は知りません。鍼灸マッサージ教員養成科の学生時代に刺した鍼に筋線維を絡ませるようにして意図的に渋鍼にした授業内容がありましたが、その時は大腿部で行いました。それ以外の臨床において、例えば肩、腕、足など腰部以外の部位に刺した鍼が抜けなくなったという話も聞いたことがありません。
ではなぜ、腰部の刺鍼が抜けにくくなるのかというと腰の筋力がとても強いということと筋層が複雑であることが挙げられます。特に成人男性の運動選手であれば腰周りも太く筋力も強くなります。刺したときに動いたり痛みなどで筋肉が一気に収縮したりすると刺さっている鍼体が曲がり、渋鍼・抜鍼困難の原因になります。先日のプロ野球選手での折鍼事故も腰部に鍼を刺した状態で動いてもらったことが抜鍼困難を引き起こしたものと推測できます。また腰部の筋肉は表層から複数の筋肉が重なっていて同時に複数の方向に筋肉が収縮する可能性があります。そうすると鍼は、くの字のように1個所曲がるのではなく、ジグザグに複数個所曲がることが起きます。
筋力自体で言えば太ももの前にある大腿四頭筋の方が筋力が強いのですが腰部の方が深く刺しやすいという条件が加わります。太ももよりも腰の方が深く刺す頻度が高くなります。プロアスリートであれば太もも周り50cmという子どもの胴体くらい太い人もいますが、多くの平均的な成人はそこまで太くありません。そして腰よりも太ももの方が感覚が鋭いので深く刺すと痛みを感じることもあります。場所に注意しますが、腰部ではかなり深く刺すことが臨床上あります。また太ももの方が筋肉の走行が何層も重なっている腰部より単純にできています。
何より腰痛を訴える患者さんが非常に多いので鍼施術の現場では腰部の刺鍼で抜鍼困難に陥ることが多くなります。これは単純な確率の話であり、母数が多いから割合も上がるということ。
私も何度か渋鍼、抜鍼困難を経験したことがあります。
一番印象的だったのが鍼灸マッサージ師になった年、つまりルーキーのときでした。鍼灸整骨院で働いていた頃。別の柔道整復師スタッフが新規患者をとり、腰部の鍼治療を提案したのです。そのスタッフははり師免許を持っていないので私が鍼をすることになりました。まだまだ経験が少ない頃で、最初から自分で受け持ってはないない患者さんに鍼をすることと鍼治療自体が初めての若い男性という条件が重なりました。私も緊張していましたが、相手はもっと緊張していたことでしょう。鍼を刺されるのが初めての上に担当者がそこで変わるのですから。今なら対応策はいくらでも実行できるのですが、当時の私にはとにかく鍼を刺さなければという使命感が上回ってしまいました。腰の特に硬い部分に鍼を8本刺しました。痛かったようで、うっと腰が動きました。大丈夫かどうか確認した上でそのまま刺した状態にしておく置鍼を10分ほどしました。時間が経過して鍼を抜こうとすると、1本抜けません。痛みと不安で腰の筋肉が強く緊張していて、鍼を挟み込んでいる感じです。このような状況になったらどうするのか専門学校で習っていたので幾つか方法を試してみました。しかし筋肉が緩まずなかなか抜けません。内心はかなり焦っていましたが幸いなことにうつ伏せに寝ている患者さんにはその様子は見えません。平静を装い雑談をしながら筋緊張を緩めていき、最後は一気に鍼を抜きました。抜いた鍼はジグザグに曲がっていました。
今思い返すと無事に抜けたから良かったものの、手こずって何度も力を入れていたら金属疲労を起こして途中で折れていたかもしれません。あるいは鍼柄が外れてしまったかも。10年以上前の出来事ですが今でも忘れられません。あれから経験を積み、刺しやすい素材の鍼を選ぶことで痛みを出さないようにする(シリコンコーティングされた鍼は入りやすい)、あまりに筋緊張は強い場合はその部分を避けて近いところで少し緩んだところから刺入する、刺す前に患者さんとコミュニケーションを取って信頼関係をなるべく構築しておく、といった対策を講じるようになりました。もちろんそれだけではありませんが。またこちらに技術的な落ち度が無かったとしても刺鍼中に患者さんが咳やくしゃみをすると筋肉が一気に縮んで抜鍼困難を起こすことがあります。少しでも危険だなと思ったら無理をせずに浅めに刺したり、腰以外のとことを使ったりして未然に防ぐようにしています。幸いなことにルーキーのとき以外で厳しい渋鍼、抜鍼困難を経験したことはありません。腰部の鍼を抜いたら曲がっていたという経験が数度あるくらいです。幸か不幸か私自身が鍼を刺されるのが苦手であったので臆病、慎重に行う素養があります。
折鍼へ繋がる抜鍼困難。その対処や未然に防ぐ方法を覚えておくことが必要だと考えています。
甲野 功
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