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~地域散策 宮城道雄記念館~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 宮城道雄記念館外観
宮城道雄記念館

 

 

あじさ鍼灸マッサージ治療院の近所には宮城道雄記念館があります。

 

宮城道雄オフィシャル>宮城道雄記念館

 

宮城道雄記念館とは。名前の通り故宮城道雄氏の偉業を紹介する資料館です。宮城道雄氏は音楽家であり数多くの功績を残しました。氏が晩年住んでいた場所が東京都新宿区中町でした。そこに昭和53年(1978年)に建築されたのが宮城道雄記念館なのです。そして日本初の音楽家の記念館になります。

 

場所は都営大江戸線牛込神楽坂駅から徒歩5分ほど。当院からも徒歩10分足らずにあります。なお住宅街にあるので分かりづらい場所になります。中町図書館の先、中町公園の向かいにあると地元の小中学生はピンとくることでしょう。愛日小学校からも近いです。もう少し東に歩いて行くと神楽坂の目抜き通りに出ます。あまり神楽坂観光に来る人もこちらまで足を運ぶ人は少ないと思います。

 

さて、宮城道雄氏とはどのような人物だったのでしょうか。私はつい最近までその存在を知りませんでした。当然興味もありませんでした。宮城道雄記念館という施設があることは前々から知っていましたし、随分前に道を宮城道雄記念館までの尋ねられたとき、そういえば図書館の先にそういう建物があったなと思いだしたくらいでした。音楽家ということする知りませんでした。

ではなぜ宮城道雄記念館について関心を示したかというと、ある患者さんの親族と関係があると聞いたからです。その方に楽器製作をしている関係者がいて、宮城道雄氏の楽器も取り扱ったと。その時に、あの近所にある記念館の名前だと気付いたのです。話によれば宮城道雄氏は音楽界では著名な方だといいます。そのような方と私の地元に縁があると知れば一度、記念館を訪れてみようと思いました。もうかなり前のことですが宮城道雄記念館に行ってきました。

 

宮城道雄氏の生涯を知ると、全く私の人生と関係が無いとは思えませんでした。拙い関係ですが俄然興味がわきました。

 

宮城道雄氏は明治27年(1894)4月7日、神戸三宮で誕生。生後200日で目の病気を患います。そして8歳で失明の宣告を受けるのです。つまり視覚障害者でありました。私の仕事、鍼灸師、按摩師は古くから視覚障害者(盲人)の生業として在りました。特にはり(鍼)、あんま(あん摩)は。それ以外の仕事として有名なものが琵琶奏者。つまり音楽家です。

 

宮城道雄氏は箏の生田流二代中島検校に入門します。検校(けんぎょう)とは盲人の役職名で最高位にあたります(※明治維新後に検校ら盲人・視覚障害者の階級制度は廃止されますが、視覚障害者の箏曲の世界ではその役職が残っていたといいます。)。私にとっては何といっても江戸時代の杉山和一検校が、検校と言えばこの人、となります。宮城道雄氏は11歳で免許皆伝を受けるのです。なんと11歳。今だと小学校5、6年生。その年で箏奏者として一人前になったのです。免許皆伝を受けた宮城道雄氏は13歳で朝鮮(現韓国)に渡り箏、尺八を教えて一家を支えたのでした。そして14歳で処女作「水の変態」を作曲し、この曲があの伊藤博文に認められました。伊藤博文はもちろん幕末の志士であり、初代内閣総理大臣。その伊藤博文に14歳で初めて作曲した曲が評価されるというのですから驚くほどの才能です。鍼の神様と言える杉山和一検校(実際に杉山江島神社で祀られている)が将軍徳川綱吉に支援されたことに似ています。伊藤博文は宮城道雄氏を後援することを約束しましたがその直後に暗殺されて果たせず。歴史の一ページに関わるエピソードに驚きます。もしも伊藤博文が暗殺されずに若かりし宮城道雄氏を支援したとしたらどうなっていでしょう。もしかしたら視覚障害者の音楽家の歴史が変わっていたかもしれません。杉山和一検校は徳川綱吉の支援で世界初の視覚障害者向け職業訓練所(はり師、按摩師養成施設)を創設しその功績は令和の日本でも根付いています。

 

そして結婚し、22歳でその世界で最高位にあたる大検校となります。大正6年(1917年)に上京するも妻が病死。翌年に再婚します。大正8年(1919年)に第1回作品発表会を開催し、25歳にして作曲家としても本格的に走り出します。西洋音楽の要素を邦楽に導入し、後に新日本音楽運動と称されるようになります。加えて宮城道雄氏は日本の古典的楽器の改良や新楽器の開発を精力的に行い、十七絃(17本の絃を有する大型の箏)、八十絃(80本の絃を有する箏)、短琴(小型の箏)、大胡弓(大型の胡弓)を考案しました。新しい楽器を生み出したわけです。冒頭に挙げた患者さんの知り合いが宮城道雄氏の楽器を取り扱ったということは、業界関係者にとってどれだけ名誉な事だったのか納得できます。

 

更に昭和5年(1930年)からは東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)で教授することになります。11歳で免許皆伝を受けた天才は指導者としても確かな実績を残しました。

宮城道雄氏は昭和31年(1956年)に大阪へ向かう途中、列車から転落し、62歳で亡くなります。宮城道雄記念館は晩年過ごした場所に建てられたのです。

 

音楽のことは素人ですが、視覚障害者の生業については無関心ではいられません。職業上、幾人かの視覚障害者の先生とは面識がありますし、一緒に働いた経験もあります。私は晴眼者(視覚障害のない健常者)ですが、あん摩マッサージ指圧師、鍼灸師という免許は視覚障害者のために存在する社会福祉的な意味合いも持つものであります。

 

宮城道雄記念館には「検校の間」という建物があります。これは昭和23年(1948年)に戦災で焼失した中町の住宅を再建する際に建てた書斎です。晩年の宮城道雄氏はこの検校の間で作曲や随筆の執筆にあたりました。現在は国登録有形文化財に指定されています。記念館は新しい建物ですが、検校の間は当時の趣を残しており、令和の現代においても“検校”という視覚障害者(盲人)特有の言葉が残っていることに、感慨深いものがあります。

 

宮城道雄記念館は音楽に携わる者だけでなく、鍼灸師、あん摩マッサージ指圧師の方々にもその存在を知ってもらいたい場所です。

 

甲野 功

 

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