開院時間
平日: 10:00 - 20:00(最終受付19:00)
土: 9:00 - 18:00(最終受付17:00)
休み:日曜、祝日
電話:070-6529-3668
mail:kouno.teate@gmail.com
住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202
これから外国人観光客(インバウンド)が復活してきそうです。先日の箱根旅行でも行きのロマンスカーで白人男性の団体客が同じ車両に居ました。今や懐かしい光景です。このような状況がどんどん戻ってくるでしょう。
東京の観光地として外国人観光客に人気な所といえば浅草。浅草は間違いなく上位に位置するはずです。浅草エリアとして上野、かっぱ橋、東京スカイツリー辺りまで含めると相当な人気ではないでしょうか。その浅草エリアにはまだまだ有名ではないが興味深い場所があります。その一つが矢先稲荷神社です。
場所は浅草と上野の間、飲食店の道具で有名なかっぱ橋商店街のそばにあります。住宅地にこじんまりとした神社ですから、浅草寺に比べると目立たちません。知る人ぞ知るという場所でしょうか。
創建が寛永19年(1642年)。江戸幕府3代将軍徳川家光公の時代です。家光公が国家安泰と市民の安全祈願、そして武術興隆の目的で京都にある三十三間堂と同じもの(浅草三十三間堂)を建てました。三十三間堂とは京都市内にあり、京都駅からほど近い国宝の建物物。三十三間の間は柱と柱の間を意味し、とても長い造り(全長121mほど)になっています。そのため、弓を射て端まで届かせる「通し矢」という練習が行われていました。ある程度上に向けて角度を付けて射れば弓は遠くまで飛びます。しかしそれでは殺傷力が落ちてしまうのと的確さに欠けるため、真っ直ぐに遠くまで飛ばす必要があり、その訓練に適していたわけです。私は過去に三十三間堂に行ったことがあり、それと同じものを浅草に作っていたと知り感動を覚えました。この江戸に作られた浅草三十三間堂の守護神として、稲荷大明神を勧請し神社を建てます。その神社が矢の向かう方向であったので矢先稲荷と名付けられました。「矢の先にある稲荷」ですね。
御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と福禄寿です。
しかし創建から約60年後の元禄11年(1698)年9月6日、浅草を中心とした大火「勅額火事」により焼失してしまいます。三十三間堂の方は深川に移転することになりますが、その鎮守である矢先稲荷神社は町民の要望で当地の産土神として再建されることになります。元禄の火事のあとも時代が下り、昭和20年(1945年)年3月9日の東京大空襲で神輿庫を残し焼失します。しかし戦後早々に仮殿にて復興し、昭和35年(1960年)に現社殿が再建されて現在に至ります。深川に移った三十三間堂は、明治5年(1872年)に廃仏毀釈(はいぶつききゃく)の影響を受け廃寺となります。矢先の名前の由来となった三十三間堂は無くなり神社の方が残ったというわけです。神社とお寺が一緒になる神仏習合の思想が長らくあり、明治時代に入り神仏分離、廃仏毀釈が起きた歴史をここでも知ることになるのです。
矢先稲荷神社の見どころは拝殿の天井にある100枚にもなる絵馬でしょう。拝殿の中に入ることができ、天井に目を向けると一面に絵があります。これらは神武天皇から昭和に至るまでの日本乗馬史を描いたもの。各時代の乗馬風景があります。海老根駿堂氏が昭和35年(1960年)から約5年がかりで製作し奉納したものです。天井一面の鮮やかな絵は圧巻です。天井画のあるお寺や神社はありますが、絵馬が飾られているのは聞いたことがありません。しかも本当に馬の描かれた絵。もっと有名になってもおかしくないと思いました。
矢先稲荷神社。京都にある三十三間堂が浅草に作られて、その流れでできた神社。元の三十三間堂は無くなり、神社が残った。現地に行くと住宅地の片隅にあり、山とか池とか自然の立地ではなく庶民に守られて残った神社であることを感じます。
甲野 功
コメントをお書きください