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~浅草寺雷門~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 雷門
浅草寺の総門 雷門

 

 

私が住む東京。今や世界に名だたる大都市になりました。一般的に東京というと東京23区の印象が強く、その中でもエリア毎に印象が異なるものです。私が住む新宿区は都庁があり、東京の中でも行政の中心と言えるのではないでしょうか。新宿から東側に行くと皇居、国会議事堂などがあり日本の中枢という感じ。更に東方面になると上野・浅草になり江戸文化の中心という印象になります。徳川家康が江戸幕府を開き湿地帯だった江戸の町を作りあげることから現在の東京の繁栄が始まりました。江戸時代の中心は今よりも東側だったと言えます。

 

特に浅草エリアの発展は大きかったと調べると分かってきます。都内で最も古くからあるお寺、浅草寺を中心に町が栄えていたと。その浅草のランドマークと言えばやはり雷門になると思います。雷門は浅草の玄関で、そこから仲見世通りを抜けて浅草寺境内へ。これが誰もが一度は目にする(想像する)浅草の風景ではないでしょうか。

 

雷門|聖観音宗 あさくさかんのん 浅草寺

 

雷門は俗称で正式名称は「風雷神門」になります。その名前の通り向かって右側に風神、左側に雷神が配されています。朱塗りの山門で浅草寺の総門になります。門の中央には、高さ3.9メートル、直径3.3メートルの大提灯が吊り下げられており、それには「雷門」逆側には「風雷神門」と書かれています。各鉄道の浅草駅から近い場所にあり、ここから浅草が始まるという感じです。その名も雷門通りに面していて多くの観光客の待ち合わせ場所にもなっています。

 

最初に作られた時期は定かではありませんが、天慶4年(941年)、安房国(現在の千葉県)の太守であった平公雅が武蔵国(現在の東京)への配置転換を祈願しました。翌年の天慶5年(942年)にその願いが叶ったことから、新天地での天下泰平と五穀豊穣を祈願して堂塔伽藍を一新した際に初代雷門にあたる門が造られたといわれています。なお浅草寺総門である雷門が現在の位置になったのは鎌倉時代以降で、移築する際に風神・雷神を安置したと考えられています。本来の「風雷神門」から今の通称「雷門」と呼ばれるようになったのかも不明だそう。「雷門」という言葉は、江戸時代文化年間(1804~18年)の川柳に「風の神雷門に 居候」という句で初めて登場します。この時点で世間では雷門が一般化していたと推測されています。大きな提灯が初めて吊るされたのは、浅草寺教化部によると寛政5年(1795年)からだそう。

 

1000年以上前からある雷門ですが、幾度となく消失し再建を繰り返しています。寛永12年(1635年)に建立された雷門は寛永19年(1642年)に焼失。このときは徳川三代将軍家光により慶安2年(1649年)に再建します(慶安の雷門)。しかし、この慶安の雷門は明和4年(1767)にまたも焼失。それからしばらくした寛政7年(1795年)に再建されます(寛政の雷門)。この寛政の雷門から提灯の奉納が行われ吊るされるようになり、歌川広重渓斎英泉歌川豊国魚屋北渓など浮世絵師の好画題となります。その作品が今も広く伝えられています。

幕末の慶応元年(1865年)になると浅草田原町からの失火により、またも焼失。この慶応の焼失では95年間も雷門は再建されませんでした。なおこのとき風神・雷神像は頭部だけが焼失を免れ、明治7年(1874年)に身体部分を補っています。

 

慶応の消失から約100年後の昭和35年(1960年)に現在の雷門が松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、再建されるのです。なぜかの名経営者松下幸之助氏が個人で寄進されたかというと、当時松下氏は関節痛を患っていました。それを聞いた浅草寺貫首の清水谷恭順氏が、ご本尊に祈願したところ松下しは快復し、その御礼の意を込めての寄進でした。さらにこの再建にあたり、常盤堂雷おこし本舗社長・穂刈恒一氏の懇意により、慶応の消失を免れ身体部分を補った風神・雷神像を更に補修・採食されたのが現在の像になります。そして風神・雷神像の背後、北の間に安置されている天龍像と金龍像は松下グループ有志により昭和53年(1978年)に寄進されました。

江戸時代は徳川家光公、近代になると松下幸之助氏が雷門を再建しました。この歴史の対比は面白いものです。

 

慶応の焼失から昭和の再建まで、この間に様々な形態の仮設雷門が登場しました。いずれもその時々のイベント的な要素が強かったようです。明治37年(1904年)の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられました。このように約100年もきちんとした雷門が無いにもかかわらず、地域に根付いていた雷門は町名や鉄道の駅名にも反映されていたのでした。長らく浅草のシンボルであったことが伺えます。

 

大提灯も松下幸之助氏が奉納したもので、その後約10年おきに新調されてきました。そのため提灯には「松下電器」の文字が今でも入っています。現在の大提灯は6基目。令和の東京オリンピックを控えた令和2年(2020年)に新調されました。新型コロナウィルス流行のため奉納式が行われなかったので印象が薄いです。平成15年(2003年)、江戸開府400年を記念して新調された4基目からそれまでよりも一回り大きくなり重量が700キログラムになりました。京都で作成されており、高速道路の料金所を通過できない大きさであるため、一般道を2日かけて輸送しないといけないのだとか。この大きさと重さでありながら畳むことが可能で、三社祭や台風のときは畳まれます。底面は木彫りの龍が施されており、雷門をくぐる際に上を向くと見ることができます。

 

今回雷門のことを調べてみると、約100年も無かった時期があることを知り驚きました。そして再建したのがかの松下幸之助氏とは。また100年も無いのにずっと庶民に定着して雷門の存在を忘れていないところが興味深いです。ずっといつかは戻したいと願っていたのでしょう。幕末にあったかつての雷門を覚えている人はいなかったはずです。そんな再建の歴史を経て、現在の浅草のランドマークとなっている。本当に浅草の象徴なのですね。

 

甲野 功

 

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