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~小田急百貨店とコンタクトレンズ~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 小田急百貨店の小田急新宿眼科医院
小田急新宿眼科医院

 

 

来週月曜日、10月3日(月)から小田急百貨店本館の解体が始まります。それに伴い10月2日(日)で小田急百貨店本館での営業が終了します。10月4日(火)から通りを挟んで向かい側、小田急ハルクでの営業が始まります。

 

新宿には百貨店(デパート)が多数あり、その一角である小田急百貨店にとって大きな転機となります。この再開発の流れは小田急百貨店本館にとどまらず、その後、新宿ミロードモザイク通りの営業終了と解体に続いていきます。すでに東京メトロ食堂街小田急エースの一部はシャッター街となっています。更に隣の京王百貨店も解体される予定です。東京都新宿区の新宿駅前は大再開発に突入しています。

 

生まれも育ちも新宿区の私にとって新宿駅は最も身近なターミナル駅であり繫華街。小田急百貨店とも大きな関係がありました。私が子どもの頃、都営地下鉄大江戸線は存在していませんでした。私が住む牛込エリアは「新宿区のチベット」と称される過疎、真空地帯でした。住宅街ですが鉄道の駅がありません。路面電車であった都電が廃止されてからはどの駅からも遠い。営団地下鉄(現東京メトロ)東西線神楽坂駅、都営新宿線曙橋駅、JR市ヶ谷駅、営団地下鉄有楽町線市ヶ谷駅、各線飯田橋駅。そのどれからも距離がありました。有名なものは旧フジテレビ本社くらい。あるいは光化学スモッグで有名な谷間の信号、市谷柳町交差点。現在よりもずっと寂れた雰囲気でした。

住民の足は都営バス。大久保通り及び外苑東通りにあるバス停から都営バスに乗ると新宿駅や飯田橋駅に行くことができました。私が子どもの頃は頻繁に都営バスで新宿に出ていました。買い物、食事、電車に乗る。どれもバスで新宿に出ることが起点。そのため最も身近な百貨店が伊勢丹本店でした。最寄りのバス停からバスに乗って新宿三丁目の伊勢丹本店前で下車します。その先の新宿駅バスターミナルまで行くと渋滞に巻き込まれるので手前で降りてしまいます。よって新宿まで出るとまず伊勢丹に入るという流れでした。小学校高学年くらいから一人で伊勢丹に行き、おもちゃ売り場でおもちゃを眺めていました。遠方の人からすると新宿の伊勢丹本店で遊んでいたのかと驚かれますが、それは地域環境によるもので当時の周りの子ども達には日常のことでした。むしろ女子は更に進んで原宿や渋谷に出かけていました。

 

このように第一の百貨店が長らく伊勢丹でした。その状況が一変するのが21世紀に入って全線開通した都営地下鉄大江戸線の存在です。

念願の牛込柳町駅が完成。

近くに地下鉄の駅ができました。渋滞に遭う確率が高い都営バスより地下鉄を使うようになります。そうなると新宿には新宿西口駅で下車して地上に上がって乗り換える行動パターンが定着します。新宿西口駅改札を出ると丸ノ内線新宿駅、JR新宿駅、小田急線新宿駅、京王線新宿駅、そして少し離れて西武新宿線新宿駅、都営新宿線新宿駅の順に近くにあります。乗り換える際に地下で繋がる小田急百貨店が一番利用する第一の百貨店に鞍替えすることになったのです。特にあん摩マッサージ指圧師、鍼灸師として最初の職場が東京都北区十条。利用する駅は埼京線十条駅でした。都営大江戸線で新宿西口駅に行き、歩いて埼京線に乗り換えて十条駅へ。その途中に小田急百貨店がありました。最も利用する公共交通機関がバスから地下鉄に変わったことで、頻繫に利用する百貨店も伊勢丹から小田急百貨店に変わるのでした。

 

さて私は29歳の3月から国家資格を持つ身として、あん摩マッサージ指圧師、鍼灸師として、働き始めました。それは24歳で脱サラして以来のフルタイム勤務でした。半導体商社の一般企業でのサラリーマン生活に限界を感じ、体調を崩して入院経験を経て退職。背水の陣で民間資格の専門学校入学。更に国家資格の専門学校に進学して免許を取得。30歳になる年に、本格的な第二の社会人生活を開始したのでした。大学卒業から、どこかで本気で社会に向き合っていなくて、勉強を隠れ蓑に過ごしてきた自負がありました。国家資格を取り、社交ダンスの聖地と言える十条を職場に選びました。もう言い訳できない、という覚悟がありました。多くの時間と学費を費やしました。これからはきちんとしないといけない。そう心に決めていました。当時は実家暮らしで両親に生かせてもらっていて。引っ込み思案な自分を変える最後のチャンスだと捉えて、敢えて自身の性格に合わない雰囲気の職場にしました。

 

就職当初は毎日もう限界だ、辞めよう、やはり整骨院は無理だったのだ、と弱音ばかり頭に浮かんでいました。1日何十名と患者さんが来る職場。大きな声を張り上げる環境。高齢者と話を合わせるためにオーバーリアクションを取る。何もかも当時の私には合わない環境で苦しかったです。現場で何種類の音が鳴ってそれを判別できない。複数の見なければいけない対象物がある。仕事の流れを覚えるのは当然で予測をしないといけない。もう毎日どころか1時間が長くて必死でした。

 

そのとき上司にあたる先輩に、甲野は真面目に見え過ぎるからメガネを外せ、と指摘されました。私は十条で働くまで裸眼で過ごしていました。視力は落ちていましたがそれまでの会社の仕事も専門学校の授業も何とか見えていました。そのため日常生活に不便を感じつつもメガネを掛けずにやり過ごしていたのです。ところが十条で働き始めると、よく見えないということが致命的。現場のスピードについていけません。否応なしにメガネを掛けることになりました。そこで言われた先輩の指摘。見た目すらいちいち言われないといけないのか、と反発する余裕はなく、おっしゃる通りですとしか考えられません。自分を変えたいと願ってこの職場に飛び込んだのです。

また忙しさと焦りで汗をたくさんかきます。メガネをしていては汗が拭えず、やはりスピードについていなくなります。今思えばメガネを掛けていたって業務はできたのでしょうが、当時は付いて行くことに必死で少しでも余計なことは省きたいところでした。

 

2つの理由からメガネを外し、人生初のコンタクトレンズにすることを決意するのでした

コンタクトレンズにすることはとても勇気がいることでした。眼に異物を入れるのです。当然お金もかかります。それでもここで自分を変えるのだと悲壮な決意があった私はコンタクトレンズにする以外選択肢がありません。

そこで「どこでコンタクトレンズを買ったらいいのか?」という問題が目の前に。最初は眼科医の診断が必要ということくらい知っていました。地元の眼科医院に行って眼鏡屋に行くのか。初めての事でなかなか難しそうなことだと辟易としました。そのときに小田急百貨店なら一つの場所でできそうだと思ったのです。何せなんでも売っている“百貨”店です。早上がりの土曜日、帰路の途中で小田急百貨店本館10階にあるコンタクトレンズ販売所に行きました。右も左も分からない中、視力を測定してコンタクトレンズを購入したのでした。

 

初めてコンタクトレンズを入れるときはとても怖くて、眼球を触るという状況に戦々恐々。コンタクトレンズを入れる・外すことにとても苦労しました。最初のうちは目が疲れてしまい、仕事が終わったら外して帰宅していました。大変でしたが、これも自分を変えるためという決意で頑張りました。30歳手前にしてコンタクトレンズ生活が開始。それはあん摩マッサージ指圧師、鍼灸師という身分を得て働き始めたことと重なりました。

 

それから15年あまり。ずっと小田急百貨店本館でコンタクトレンズを購入してきました。途中、検査をしてコンタクトレンズの種類を変えました。そのときも眼科医がいるのでその場で検診できました。またずっと買っているので1回分おまけしてくれるようになりました。2週間使うものなので積み重なるとかなりお得です。

ネット通販にすればもっと安く、いちいち新宿まで行く必要もないかもしれません。しかし初心忘るべからずではないですが、あの日コンタクトレンズにして現場について行こうと必死だった気持ちを思い出す意図もあり小田急百貨店まで足を運んできました。同じフロアーには「ストーリーストーリー」という本屋と雑貨店、喫茶店が組み合わさった店舗、それに文房具店「伊東屋」もあり、何かと便利でした。

 

小田急百貨店本館は都営大江戸線開通によって最も利用するデパートになりました。子どもが生まれてからは屋上の広場でよく遊ばせました。地下の食料品売り場ではちょっと贅沢をしたいときにケーキやお菓子を買いました。そして何より第二の人生を進む過程でコンタクトレンズに変えるための場所だったのです。これが最後になるとコンタクトレンズを購入しに行ってきました。約15年間の足跡を感じてきました。

 

甲野 功

 

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