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巨星、墜つ。稀代のプロレスラー、アントニオ猪木氏がお亡くなりになりました。
中学2年生のときにプロレスにはまって、長らくプロレスを追っかけてきました。今ではほとんど情報を追いませんが、中学から社会人のはじめ頃までは本当に熱中していました。
今回アントニオ猪木氏の死去というニュースを受けて、本当に久しぶりに週刊プロレスを購入しました。週刊プロレスは思春期、青春期にずっと買っていた雑誌。当時はターザン山本編集長時代の全盛期。世界一写真が多い週刊誌といわれ、版元のベースボールマガジン社のビルを建てたと噂されました。この時期に大量の文章を読む習慣がついたことや、プロレスを通して興行世界、社会の裏表、世間との戦い、といった日常であまり触れることの無いものを知りました。
この訃報で普段は取り上げないワイドショーがアントニオ猪木氏の特集をしていました。しかしその内容やコメンテーターの発言が非常に表面的であることに不満というか憤りを感じたものでした。一般視聴者層に向けたものですから仕方ないのですが、モハメドアリと戦ったことと国会議員として日本人の人質解放をしたことくらいしか話題にせず。コメンテーターのコメントも何とか関連性を引き出してそれっぽいことを言っているように聞こえました。プロレスファンの勝手に不満ではあるのですが。
数年ぶりに手に取った週刊プロレスとともにアントニオ猪木について書こうと思いました。いつもは氏名の後に「氏」や「さん」をつけるのですが、一ファンとしての私の立場と、稀有なスターとしてのアントニオ猪木から、敢えて敬称なく呼び捨てで書いていきます。
ここまで読むとあたかも私はアントニオ猪木ファンのように映るかもしれませんが、そうではありません。はっきり言えばジャイアント馬場派でした。
日本のプロレスは、始祖とも言える力道山が戦後の日本でテレビ中継とともに国民的スターになることで花開きます。力道山の教え子としてジャイアント馬場、アントニオ猪木の両巨頭がいて、奇しくも二人は同日に別々の対戦相手とデビューします。日本人トップレスラーに成長した二人は日本プロレスを創業した力道山の死後、その日本プロレスから独立しアントニオ猪木は新日本プロレスをジャイアント馬場は全日本プロレスを旗揚げすることになります。古巣の日本プロレスも別にあった国際プロレスも無くなると、長らく新日本・全日本の2強時代に突入。すなわちアントニオ猪木派かジャイアント馬場派という。前者にはテレビ朝日がつき、後者に日本テレがつきます。そして私はというと両方を観ていましたが断然ジャイアント馬場派の全日本プロレスが好きでした。
アントニオ猪木とジャイアント馬場。東洋医学の根幹をなす陰陽論のように二人は対立し対比されました。アントニオ猪木という存在はジャイアント馬場がいなければそのほとんどが成り立たなかったと思われます。それほど対照的で、互いの存在があったからこそ双方が輝いたと言えるでしょう。
日本人プロレスラーにおいて、日本で最も輝いていたプロレスラーはアントニオ猪木ではないでしょうか。ジャイアント馬場派の私から見てもそう思います。力道山は生まれる前の人物で実際に見たことがありません。アントニオ猪木は全盛期は知りませんが晩年に差し掛かる頃はこの目で見ることができました。もちろん生前のジャイアント馬場も。その上で圧倒的な存在感を放っていたのはアントニオ猪木でした。
私が初めてリアルタイムでリングにあがるアントニオ猪木を見たのは中学生の頃。既に参議院議員に当選し、特別な大会にしかリングに上がらなくなっていました。その時テレビで観たのがアントニオ猪木対VS馳浩の試合。今や自民党の大物政治家といってよい馳浩氏との一騎打ちでした。生中継の一戦で花道に登場したアントニオ猪木をみたときに、画面越しでもその存在感に圧倒されました。中学生まで人物を見ただけで心底凄い!と感じた経験がありませんでした。映像でしかもただ入場するシーンなのに、何か人として別格というか、いわゆるオーラが伝わってきたのでした。もう全盛期を過ぎた時期なのにこれほどとは。猪木信者が多数いることに納得しました。
熱狂的なアントニオ猪木ファン。それを猪木信者と呼びます。各方面に猪木信者はいて、特に格闘技マンガではアントニオ猪木そっくりなキャラが出てくるものです。例えば「グラップラー刃牙」、「TOUGH」、「喧嘩商売」。私より少し上の年代には圧倒的カリスマで作中に出したくなるのでしょう。なお猪木信者はいても馬場信者というのは聞いたことがありません。ジャイアント馬場はファンはいても信者という感じがしません。それは一つにアントニオ猪木が神がかっていたことと情念を世間に訴えかけ続けたことにあるからでしょう。力道山の正当な後継者とされ、アメリカで大成功を納め、王道を進んでいたジャイアント馬場。彼に対するアンチテーゼがアントニオ猪木の存在を際立たせました。
ジャイアント馬場はまさに王道。保守本流。プロレス界の良心であり模範。そういう存在でした。日本テレビへの恩を感じ、独立してからなおさらテレビ朝日に出演することは無かったとか。引退する前から自然と周囲が「馬場さん」と呼びました。あれほどのトップレスラーだったにも関わらず年齢を重ねて体力が衰えてくるとメインの試合を後進に譲り第3試合の6人タッグマッチに出て続ける毎日。ようは前座に降りたのです。毎回ほぼ変化の無いメンバーでお笑い要素の強い試合。水戸黄門の印籠のようにお約束的な十六文キックをみせる。
ここまで自分の格を落としたトップレスラーはいないでしょう。
その代わり毎大会に出場し続けてリングにあがり、ファンの前に立っていました。しかも最後までTシャツなどで体を隠すことなく。晩年になると身体が萎んできてみっともなくなりTシャツをきて体を隠してリングにあがるベテランレスラーがいるのですが、ジャイアント馬場はそれをしませんでした。更にいざという時はメインイベントに出場し、ファンが心配するのをよそにリング上で試合をしました。もう前座が定位置になって久しいレスラーとして晩年の頃、ある目玉外国人選手が都合により来日できなくなることがありました。その時のシリーズ開幕戦で、後楽園ホールのメインイベントに自分よりずっと若いトップレスラーに交じって6人タッグマッチに出場したジャイアント馬場。まさかの60分時間切れまで試合をしたのでした。当時は日本武道館がビッグマッチ。東京とはいえ、後楽園ホールのキャパシティーでジャイアント馬場がそこまで体を張るとは一ファンとして思ってもみなかったです。その日、会場で観ていた私はジャイアント馬場なりのファンへの誠意だったと記憶しています。
対してアントニオ猪木はプロレスのメインストリートを歩くことができませんでした。だからこそ異種格闘技戦やスキャンダルを重ねて世間の耳目を集めたとも言えます。最も有名な出来事は当時プロボクシング現役世界チャンピオンだったモハメドアリを来日させて戦ったこと。今も昔も現役のプロボクシング世界チャンピオンがプロレスラーと戦うなど考えられません。多額の借金を抱えて実現させてしまったのです。しかも物の本によるとエキシビジョンで見せ場を作って終わらせるところをアントニオ猪木が真剣勝負にこだわりアリ陣営が態度を硬化。ほとんど何もできないようながんじがらめのルールに変更したという。その結果、あのようなすぐにアントニオ猪木が寝転んでしまう(後に「猪木アリ状態」と固有名詞となる)状況が続いたのだとか。あの試合で足を蹴られ続けたアリは血栓症を発症し引退が早まったそう。またあの試合以降盟友となった二人、アリはテーマ曲をアントニオ猪木に渡し、かのイノキボンバエが誕生。真剣勝負ゆえの逸話でしょう。
異種格闘技戦に打って出たのもプロレスの保守本流をジャイアント馬場が占めていたから。言い換えるとジャイアント馬場がいてくれたから異なることができたのでしょう。なお生前アントニオ猪木がどうしても戦いたくなかった相手が(奇しくもジャイアント馬場の弟子にあたる)「邪道」こと大仁田厚だったとか。とても象徴的なエピソードです。
アントニオ猪木は予定調和を嫌い、ファンの想像を超える、あるいは裏切ることが好きでした。そのため数え切れないスキャンダルや問題も起こしてきました。プライベートでは超有名女優との結婚、そして離婚。プロレス以外の事業に手を出して失敗。社内クーデターを起こされて社長の座を解任。いい方向に出ると想像を凌駕した試合を残しますが、悪い方向に出ると問題が噴出。“プロレスラーアントニオ猪木は最高、人間猪木寛至は最低”という言葉あるほど。元子夫人一筋で堅実な経営を好み、財を成したジャイアント馬場とは対照的です。
引退時もファイナルカウントダウンと言いながらカウントアップするというでたらめさでいつ引退するのか分からないという。愛弟子の藤波辰爾の対戦要求は無視し、ビッグバンベイダー、スティング、ジェラルドゴルドーといった海外選手とファイナルカウントダウンを戦います。引退時代はドン・フライというファンはほとんど思い入れのできないプロレスラーでもない格闘家と行います。そして試合は4分弱。グランドコブラツイストというまた何とも言えない決め技でした。
その遺伝子は弟子たちに受け継がれ数多くの弟子は新日本プロレスを去ります。そして最後は創業者であるアントニオ猪木自身が新日本プロレスから実質追放されるという事態に。引退して段々とアントニオ猪木の色が薄くなる新日本プロレス。それが気に食わないのか色々とちょっかいを出した猪木。現在世界最大団体であるWWEで活躍する中邑真輔は試合後になぜかアントニオ猪木に殴られるという。このことがショックで中邑真輔は実家の京都に帰ったとか。新日本プロレスの経営が傾き別企業に身売りしてからは、アントニオ猪木は新日本プロレスにおけるタブーとなるのです。奇妙な運命か、自身が創設した新日本プロレス旗揚げ50周年の年にアントニオ猪木は死去。アントニオ猪木の影響をほぼ受けずにプロレスラー人生を歩んできた現在のエース、オカダカズチカが来場を求めていた矢先の出来事でした。※オカダカズチカは別の団体でデビューしキャリアを積んで中途採用のような形で新日本プロレスに入団。既にアントニオ猪木は関与しておらず関りがほとんどないままチャンピオンになった
いい意味で常識にとらわれない、悪く言えば周りの迷惑をかえりみないアントニオ猪木。だからこそ、イラクの日本人人質解放や北朝鮮で19万人の観衆の前で試合をするといった信じられない偉業を達成できたのでしょう。ちなみに日本にタバスコを持ってきたのはアントニオ猪木。バイオマスやフリーエネルギーなど今では当たり前になっている技術をはるか前から注目していました。発想に時代が追いついていない天才とも言える一面がありました。
そしてジャイアント馬場との大きな違いは、晩年の露出だと私は考えます。レスラーとして衰えを認めて前座に降りたジャイアント馬場。かつて世界最高峰だったNWAチャンピオンまでなったレスラーが休憩前の第3試合に。しかも地方の会場でもあがり続けました。かたや参議院議員となったアントニオ猪木はビッグマッチ限定の出場となり、特別な時にしか見られないレスラーへ。もちろん前座に出るようなことはなく大会の締めに登場するのでした。リング上で堂々と老いをみせ続けたジャイアント馬場と最後までメインイベンターであろうとしたアントニオ猪木。
アントニオ猪木は華々しい引退後も世間の注目を集めたい人間でした。PRIDEという格闘イベントのアンバサダーとなり結果的に新日本プロレスの興行を邪魔する。まさかの参議院議員に復活。世間と戦うという姿勢はいつまでも目立ちたいというエゴにもみえました。それは死ぬ間際まで貫かれます。病床で衰えた姿を配信していました。あの筋骨隆々だった姿からは信じられないくらいやせ細り弱った姿を世間に出していたアントニオ猪木。肉体的な衰えを隠したいというのが元プロ選手の本音ではないでしょうか。それをアントニオ猪木は惜しみなく姿をさらし続けました。正確な病床を隠し人知れず亡くなったジャイアント馬場とはここも対照的です。人気業の業(ごう)を貫いた生涯だったと感じます。
本当に数奇な運命をたどった稀代のプロレスラーだったと思います。アントニオ猪木が、日本のみならず世界のプロレス業界に与えた影響は計り知れないものがあります。何より死ぬ間際まで“アントニオ猪木”を貫いた人でした。ご冥福をお祈りします。
甲野 功
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