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~阪神淡路大震災~

NHK ニュースより
NHK ニュースより

 

 

本日1月17日。この日は阪神淡路大震災が発生した日です。

 

今から28年前、1995年1月17日午前5時46分に阪神淡路大震災が起きました。神戸市などに多くの被害が及び計6437人が亡くなられました。28年が経過しその時のことを知らない世代が増えてきています。直接影響を受けたわけではないのですが、2023年現在の私が感じることを振り返ってみます。

 

1995年1月17日。このとき私は高校2年生。渋谷にある國學院高校に通っていました。関西の大震災、東京が揺れることはなくいつものように目覚めるとテレビ番組は関西で起きた大地震の報道一色でした。それからしばらくはこの震災のことがずっと流れていた記憶があります。私はその春高校3年生になる高校2年生の年明けでした。2年生から理科系コースになり物理、化学、数学に力を入れた高校生活でした。地震についても習っており、知識としての地震と現実のそれを比較して唖然としたものでした。

 

また私の父親が地震に対して非常に敏感な人間でした。その頃には転職していたと思いますが、ずっと原子力発電関連の仕事をしていた父。物心がついたときから単身赴任をしていて平日は家にいない。ずっと原子力発電所で勤務していたのだとか。だとかという表現をするのは、そのときは職務内容の関係から家族にも詳しい仕事内容を話していませんでした。職場を去ったあとに聞いたことが多かったのです。父は原子力発電所のそばにある宿舎に暮らしていてある程度の震度以上の地震が発生した場合、無条件で現場に駆け付けることが義務付けられていたそうです。そのため地震の研究を個人的にしていて、住居がある東京都新宿区における大地震の記録や岩盤の丈夫さを調べている人でした。

 

このような環境にあった高校2年生当時の私は生まれて初めて体験する我が国の大震災に愕然としたものでした。特に神戸市の住宅地広範囲が火災に見舞われて、それを報道ヘリが上空から撮影していた映像。戦争で爆撃されたかのような光景も去ることながら、報道のプロであるはずのアナウンサーが実況しながら涙で言葉に詰まっている音声。この日本でこのような事態が起きるのかと愕然としました。1977年、昭和52年に生まれた私は第二次世界大戦も知りませんし、大災害や大事故というものをそれまで知りませんでした。過去の映像であさま山荘事件や東京大学講堂立てこもり事件などを目にしましたがリアリティに欠けました。高校2年生という年齢になって阪神淡路大震災がリアルタイムで起きていることだと実感できたのでした。

 

阪神淡路大震災が社会に与えた影響はとてつもなく大きなものでした。当時は関西には大地震が起きないという考え(今思えば願望かもしれません)が根付いていたといいます。高速道路が倒壊するなど想定されていませんでした。地震の多い関東や静岡であればあれば程の被害にならなかったのかもしれません。理系コースの高校生にとっては他人事では無かったと記憶しています。1年後には大学受験を控えていて。同級生には少なくない人が工学部に進学することになります。また自衛隊への印象が覆ったといえます。私が小中学生の頃、学校の先生はいかに旧日本軍が悪い存在で、日本が諸悪の根源と言わんばかりの話しをしていました。自衛隊ももちろん悪の存在であってはならないものだと。自衛隊反対を掲げる大人がたくさんいました。しかし阪神淡路大震災で救助活動が可能なのは自衛隊しかいなかったということがはっきりしました。あの規模の大災害では、当時の消防では対応できない。装備を持つ自衛隊が現場救助に必要でした。時の総理大臣は自衛隊反対の政策をとっていたため自衛隊出動を渋ったため、のちに非難されることになります。被災住民がヘリコプターが飛んできたので救助隊だと思ったら報道ヘリで、上空から撮影して帰ってしまったことに強い怒りを覚えたといいます。この教訓がのちの東日本大震災で活かされたといえるでしょう。

 

阪神淡路大震災から1年以上経ったあと。1996年3月。私は高校の山岳部同期2名と卒業旅行で四国の高知に行きました。幕末の志士を巡る旅として坂本龍馬、中岡慎太郎らを輩出した土佐藩の高知へ。後半は激動の幕末における中心地、京都へ行きました。高知から京都に向かう道中、岡山から京都に向かう電車の車窓から神戸の街並みを眺めました。そこにはまだブルーシートで覆われた家屋が多数残っていました。ほんのわずかな時間ですが1年以上経過してもいまだ復興できない被災地を目の当たりにしたのでした。

 

ずっと東京に住んできた私にとって阪神淡路大震災は遠い関西の出来事であり、関心が薄いものです。それは物理的な距離だけでなく、同じ年に起きた大事件が強く関係します。それは地下鉄サリン事件。おなじ1995年3月に起きた戦後最大のテロ事件。舞台は都内各所で霞が関をはじめとして政治の中枢部でした。生活圏で起きたバイオテロ。その印象が強すぎて1月の阪神淡路大震災が吹っ飛んだといえます。特に地下鉄構内で撒かれて物質がサリンという猛毒。高校で化学を学んでいた理系学生には非常に衝撃でした。化学式や生成方法が理解できてしまったからです。科学を学んでいた高校生が科学を用いたテロ事件を体験する。しかもその日高校は休みで良かったのですが、もしも通常授業の日であれば高校の同級生が多数被害にあっていたのでした(高校の最寄り駅は地下鉄外苑前駅)。1年後の1996年4月に東京理科大学に進学することになる私には人生で初めて経験した大事件だったのです。

 

社会的関心も東京で起きた地下鉄サリン事件を機に阪神淡路大震災が注目されなくなったと言います。阪神淡路大震災の関心が薄くなってしまったのは必然でした。しかしその記憶を否が応でも思い出させることになったのが2011年の東日本大震災でした。震源地は東北ですが東京も大きな揺れに見舞われ、その後数ヵ月にわたり余震に悩ませされました。阪神淡路大震災のときは高校生だった私は東日本大震災では結婚していました。受け取り方も変わっていました。家族を持った状況での大災害。奇しくも阪神淡路大震災のとき神戸に本社がある会社に在籍していた父親は東日本大震災時には地元の町会長として地域を見て回り、原発事故が起きた福島へOB関係者として調査に向かったのでした。その父の人生と姿をみて感じるものがありました。ちょうど柔道整復師国家試験が終わった直後でキャリアチェンジの時期と重なります。東日本大震災はその後の身の振り方を大きく変える影響となりました。

 

そして阪神淡路大震災の経験が東日本大震災へも大いに活かされていることを知るのでした。1995年のときとは違う。自衛隊の動きも国民からの期待も変わっていました。また当時の都知事が出した指示により東京消防庁が東北に派遣されて救助活動を行いました。神淡路大震災では迅速に臨機応変に対応できていなかったのが。

 

この仕事に就いてから阪神淡路大震災の影響を間接的に感じることが多々ありました。阪神淡路大震災でクラッシュシンドロームという言葉が生まれます。長時間がれきなどの重量物に四肢が圧し潰されていた状況で起きる症状でそれまで知られていませんでした。阪神淡路大震災の被災地で柔道整復師が検査機器も道具もない状況で救急外傷の処置をしたという話。そこから柔道整復師、あん摩マッサージ指圧師、鍼灸師らが、大災害発生時にどのように行動するかが議論されたといいます。それはその後の新潟の中越沖地震でも東日本大震災でも熊本地震でも被災地でどのように災害支援をするか実践と研究がなされてきました。

 

コロナ禍という経験したことの無い苦難を経験したいま。阪神淡路大震災について振り返る気持ちになりました。この時期だからこそなのでしょう。これまでは阪神淡路大震災はどこか他人事でした。今年の1月17日は考えてみようと思ったのです。

 

甲野 功

 

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