開院時間
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住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202
以前、東京都新宿区は鍼灸専門学校が多く存在し(現在、6つの養成施設がある)、過去にも2つの私立鍼灸学校が存在したという事を紹介しました。私の母校である東京医療専門学校も新宿区四ツ谷で、私が生まれ育ったのも新宿区。新宿区で生まれて区外で暮らしたことがありません。そんな私が現在、鍼灸師になっていることに運命的なものを感じてしまいます。大袈裟かもしれないのですが、それを更に感じさせるものを見つけてしまいました。
東京都庁の近く、新宿中央公園の脇に十二社熊野神社があります。この神社を以前紹介しました。そこでふと気づいたのが島川玄丈人壽兆碑(しまかわげんじょうじんじゅちょうひ)という史跡です。最初は気に留めていなかったのですが、十二社熊野神社について調べていると、これは『鍼術の大家、島川草玄の長寿を祝う文章が刻まれた石碑』という事実が判明します。
なおGoogleマップには『鍼術島川草玄の碑』と表記されています。鍼術といえば、鍼灸師である私はもちろん反応するわけで。しかし鍼術の大家、と言われる人物に島川という名前は知りません。名前も草玄、玄丈と2つあるようです。この鍼の大家、島川という人物を調べることにしました。
まずヒットしたのが以下のサイト。
<和歌山社会経済研究所 紀州 in 東京II(神社仏閣・墓所)>
内容から引用します。
『
「紀州徳川家の侍医で、鍼術の大家島川草玄の長寿を祝って、紀州藩士川合衡の撰文により、文化4年(1807年)に造られた」とあります。どんな名医だったのでしょうね。「南紀徳川史 巻6」の医者の項で紹介されています。「先祖は太田道灌に仕えていたが、武州(秩父)へ引き籠り、地士にて代々相続す。明和9年(1772年)15人扶持金5両で召出され、安永4年(1775年)20人扶持金10両に加増。天明7年(1787年)病死64歳」とあります。更に、「当時名手の聞え世に高く其門に学ぶ者二千有余人島川流の一派を興せり云々」ともありました。
』
このことからわかること。
島川草玄とは。紀州徳川家の侍医。先祖が太田道灌に仕えていたが、秩父へ。代々土地を相続していた。江戸時代の明和9年(1772年)におそらく紀州徳川家に召し抱えられた。門下生2000人余りいる「島川流」を興した。天明7年(1787年)に64歳で病死。長寿を祝って紀州藩士である川合衡の撰文により文化4年(1897年)に石碑が作られた。
島川草玄という人物が江戸時代の紀州(今の和歌山県あたり)にいて紀州徳川家に仕えた鍼師だった。とても有名で島川流の開祖。当時としては長寿で、それを祝う文章を記した石碑が作られたようです。「島川玄丈人壽兆碑」という名称について考えてみます。島川は家名で間違いないでしょう。壽は寿のですから人壽は人寿で「人間の寿命」という意味。よって玄丈が名前。最後の碑はそのまま石碑の意味だとして、兆がよく分かりません。兆碑という単語も検索に出てきませんでした。とにかく島川家の玄丈という者の寿命が長いからそれを祝った石碑という意味に「島川玄丈人壽兆碑」はなりそうです。
では島川草玄と玄丈は同一人物なのでしょうか。どちらも玄の文字が入るのでそうだと思われます。江戸時代は名前を変えていくことが珍しくありませんし。なお「南紀徳川史 巻6」も調べたのですが内容を書き下し文にしている資料が見つからず、医者の項すら分かりませんでした。
視点を変えます。なぜ紀州の者に関する石碑が新宿区にあるのでしょうか。紹介したサイトも「和歌山社会経済研究所」といって和歌山県に関するページです。その中で東京における紀州(現在の和歌山県)と関わりのあるものを紹介するものの一つとして「島川玄丈人壽兆碑」(鍼術島川草玄の碑)が掲載されています。徳川家という共通項があるにせよ、紀州から遠い江戸の地(現在の東京都新宿区)に石碑があるのか。その謎は石碑が十二社熊野神社境内にあることから推測できます。
紀州の熊野神社で代々神官を務めた鈴木氏の末裔である鈴木九郎という人物がいまの新宿で財を成します。成功には故郷である熊野三山から十二所権現全てを祀ることから十二社熊野神社ができたのです。その関係から今の新宿区に島川草玄の石碑があることが伺えます。
さて、私も約20年鍼灸の業界にいます。しかし島川流なる流派を知りません。そこで「島川」で調べてみるとこのような情報が出てきました。島川近富なる人物です。
『
享保9年(1724年)-天明7年(1787年) 江戸時代中期の鍼医。
享保9年生まれ。病にかかって失明し、のち鍼術を会得。島川流をおこし、弟子2000人をかぞえた。明和9年(1772年)和歌山藩につかえ、奥医師となる。天明7年6月8日死去。64歳。武蔵秩父(埼玉県)出身。通称は富都。
』
解説を読むと島川草玄(玄丈)と同一人物であることは間違いないでしょう。没年、職業(鍼医)、島川流を興す、弟子2000人、和歌山。64歳でなくなり秩父出身であることまで。更に情報として、病で失明していること、富都という別名もある、ということです。江戸時代で鍼となると盲人であるのは至極当然です。むしろ失明したことで鍼師になったものと思われます。また草玄、玄丈、近富、富都と4つも名前が挙がってきました。
グーグルマップで『鍼術島川草玄の碑』を調べると、石碑に刻まれた文章と思われる文字が掲載されています。現物の石碑をみると文字があるのは確認できるのですが読み取ることが困難でした。大きな題字は読むことができますが。その文章と思われるものがこのようにありました。
『
【題額】島川玄丈人壽兆碑
【本文】
江戸城之未剏也、太田道灌始居此地方、天下雲擾、以俊傑資張雄山東、麾下多名士、島川氏之先近貞事之爲行人、道灌罹禍其衆墳、近貞耕于之以没身、逮天正建牙開府于此、近貞子孫屏處秩父、七世有近保者生近富、病而盲、以善九鍼術、出入高貴門、受業者盖二千餘人、鍼術有杉山・島川二流者、自近富始矣、以技仕吾 先公于紀邸、無子養姪草玄爲嗣、草玄好軒岐學、襲父祿爲侍醫、島川氏本姓藤、藤氏別族有木氏、故稱木草玄、字草玄、自號曰玄丈人、爲人慷慨好揚人美、然有一言不合義者、不肯少假借、爲有病者請治、常先貧者、後富者、好讀漆園氏書、屋後小樓扁曰、小壺天、退食日居其中、以避人事、余毎祇役来于江戸、與丈人及金世雄・藤世輔・紀大亮・沼伯經・榊子禮・菊博甫、以文雅爲交、今茲丁卯復来、則丈人年適六十、先是世雄・世輔・大亮既即世、乃與伯經諸子、題丈人峰圖爲壽、丈人亦自作詩五章言志、一日開筵、延余輩酒酣、且言曰、老將知而耄及之、大丈夫雖不能傳朱騎馬也、享生食肉六十年、樂亦是矣、余將擇不食之地、爲長夜室、諸君今日以余爲死于此葬于此、而今而後、余雖生也、游魂行尸耳、喜怒哀樂、日夜相代乎前、余又如何議論是非、日夜聚訟乎前、余又何辨、古人亦有豫爲塚壙、引客坐飲塚中賦詩、或荷閃相隨者、自玄通之士、觀之則死生一致、到處青山、皆吾俘仭、爲塚與荷閃、均皆爲煩安得以此為達余也、固分溝壑、自填欲首足形、與附烏鳶、飽衽蟻、一任所遇、非所以豫爲慮焉、然狐死丘首仁也、人之樂思、平生所游憩、寧謂百歳之後、無復神游者哉、魚山之歎、襄陽之泣、使人於邑、吾以不才、死而不朽、豈可庶幾哉、幸有二三兄弟、在敢即圖之、余聞之、歎其達位、亦哀其情、乃従丈人、相地于西郊、得三山祀傍、是又古武野之域、所謂樓堂里、距此不太遠云、營爲玄丈人壽兆、略記其世系、髪樂石覿、以銘、銘曰、
有山嵂捧 名曰丈人 有人山立 爲德有鄰 術資醫國 志存濟民 乘變游化 葆光頤眞 挫鋭解紛 和出天鈞 生全其器 卜兆恃俘 偉矣曠懷 以見風淳 好謙居退 足克終身
文化四年冬十一月南至
紀藩 川合衡襄平撰 武蔵 左潤書 賀瑛之書額 鈴木佛肩鐫
*堂 不鮮明の字 末画「亅」にも見える。
』
解読することは難しいのですが、いくつか見慣れた文字があります。
最初の<江戸城之未剏也、太田道灌始居此地方、>というところ。江戸城、太田道灌は分かります。太田道灌とは徳川家康より前に江戸をおさめていた武将です。島川家が太田道灌に仕えていたという情報とも合致します。
そこから島川近貞という人物がいて、秩父という地名がでてきて、近貞の子孫で近富が生まれた、というようなことが書いてあるようです。<近貞子孫屏處秩父、七世有近保者生近富>。
そして鍼灸師として注目する部分が続きます。
<病而盲、以善九鍼術、出入高貴門、受業者盖二千餘人、鍼術有杉山・島川二流者、自近富始矣>
最初の部分で、病になって失明したと読み取れます。前に挙げた島川近富の解説文に合致します。
<以善九鍼術>の九鍼は教科書にも登場する古典的な鍼の種類。その九鍼術を島川近富は学んだと。
<受業者盖二千餘人>が門弟2000人いたという内容と思われます。
そして最も注目する文字が<鍼術有杉山・島川二流者>です。杉山というのは杉山和一検校の杉山真伝流のことで間違いないでしょう。杉山和一とは江戸時代初期の鍼師・按摩師です。盲人で時の将軍徳川綱吉に召し抱えられ盲人のための訓練所を作りました。また杉山真伝流を興します。この文章は島川近富は杉山流と島川流の二つの鍼術流派を学んだ者と読み取れます。杉山真伝流を学んだ後に自分の島川流を興して鍼の大家になったのでしょうか。その後には「草玄」、「玄丈」という名前と島村近富から変わっていった名前と思われる文字が出てきます。あとには「六十年」という文字があるので長寿に関することを書いているようです。最後は文化4年冬の11月という日付。
石碑に刻まれた文章と「南紀徳川史 巻6」の内容が分かると島川草玄なる“鍼の大家”の実情が掴めるのでしょう。これ以上のことは私には分かりませんでした。有識者の意見があればな、と思います。
甲野 功
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