開院時間
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※敢えて敬称略で書いています。
JBDF東部総局、プロスタンダードA級三森秀明・酒井良美組が競技引退を公表しました。
その報せを目の当たりしたときに様々な感情と記憶が沸き上がりました。二人の決断を祝いに会いに行こうと決めて。神田の奥山ダンススクールを訪れました。十数年前、奥山ダンススクールに入職した三森秀明を祝おうと「神楽坂」という名前の日本酒を持参しました。その頃、奥山ダンススクールは今とは違う場所にあり、パートナーの酒井良美はまだ入職していませんでした。私は神田駅前のリラクゼーション店でバイトをしていました。あの時と同じ、更に大きな瓶で日本酒「神楽坂」を持参しました。
三森秀明・酒井良美組。共にALL東京理科大学舞踏研究部の出身で私の後輩になります。3年生の時の1年生で、ローカルな言い方をすると“子代”にあたります。二人とも入学当初から知っています。特に三森秀明の方はヒデと呼んで繋がりが深い後輩でした。私は連盟委員という役職で、選手登録や競技会のエントリーを大学の代表で行う役職だったので部員の情報を把握していました。二人が大学1年生で競技会デビューするときも書類を書いています。その競技会デビューを見守った二人が長い競技生活を経て、ついに引退。スタートに関わった者としても、その決断には思う所がままあります。
改めて思い返すと三森の存在が私の人生を決めた要因の一つでした。彼が恩人でした。
ひょんなことから大学で始めた学生競技ダンス。社交ダンスを競技として行う競技ダンス。学生競技ダンス連盟(通称、学連)に所属する大学生のみで行われる競技会の数々。毎日練習しました。優秀な先輩や同期がいるなか、私はまったく入賞できない日々。競技にはモダンとラテンの2種類あり学連は2年生以降専攻分けをしてどちらか一方を行います。当時の理科大はラテン強豪校でモダン弱小校でした。モダンを選んだ私は選手が少なく、先輩方もお世辞にも成績を残しているとは言い難い。ラテン部門の強さと層の厚さと比較すると大きな差がありました。
3年生になり初めて私が入賞できて感激したのもつかの間、人間関係の問題でパートナーが退部することが濃厚に。学連では主に2年生のとき決まった相手と組んで競技レベルを上げていくのですが、そのパートナーが辞めるという。やっと1年間二人で築いてきたものがリセットされます。そして大学内に次に組む相手がいなければそこで競技生活は終了です。昔から男性が余る大学で、今のように他大学と組むことができませんでした。カップルを解消して卒部まで大会に出場することなく終わった同期もいます。ここで競技者としての自分は終わるなと思いました。
その時に目に入ったのが落ちこぼれだった三森でした。今では考えられませんが、1年生の夏まではやる気のない、練習をしない、部内でも最底辺の部員でした。誇張ではなく本当に。部内戦でも他大学との交流戦でも最下位タイの成績だった彼を夏休みに指導するようになりました。それはもう自分自身が競技会で輝くことは無理そうだという諦めの裏返し。元々成績が出ていない選手が1年間組んで頑張ってきた相手がいなくなる。もしも新しい同期と組めたとしてもまた成績を残すのは非常に難しい。3年生の夏過ぎには自分の実力を査定できるようになっていました。同時に、まだ本気で取り組んでいないこの1年生には素質がある、という確信のようなものがありました。
私はそれなりに努力して練習を積んできたつもりで、上達するにしたがって上位陣との差を測れるようになり、これはもう追いつけないだろうという気持ちになっていました。上達するからこそ理解できてしまう。せめて同じ相手と練習していけたらという無念。その無念をこの1年生に掛けてみよと思ったのです。
そう期待したくなるくらい三森は毎日練習して上達していきました。私自身が下手で苦労した経験を活かして、上手くできないところを潰していきました。私は、自然と踊れていました、なんてことがなかった分、踊れない人をみるのが合っていたのでした。私の想定を遥かに超えるスピードで上達する三森の姿に私は燃えます。彼の同級生パートナーに、この子は天才だ、と思う逸材がいました。二人が将来組んだら凄いカップルになるだろうと期待します。モダン弱小校からモダン強豪校にすることができるかもしれないと。
私は3年生の秋に、私と同じように相手が退部してしまった女性部員と正式に組みます。そしてまた1次予選落ちの選手生活に戻ります。相手が変わってすぐに踊れるほど互いに技量はありませんでした。互いの癖を把握して息を合わせるのにまた月日を費やすことになるのです。一方、三森はメキメキと上達して上にいた同級生たちをモダン種目ではごぼう抜きにしていくのでした。カップル解消もあり、1学年下の選手に成績で抜かされていった私には彼の上達が心の支えになっていたところがありました。かつて自分自身が思い描いていたことを三森がやってくるはず。そういう期待を勝手に託していました。
私はモダン4種目の中でもクイックステップという種目が一番好きで得意でした。それを一番磨いていていました。その想いはヒデに受け継がれて、のちのち学年で1、2を争う名クイックステップ選手に成長。4年生のときに彼は夏の全日本選抜戦モダン総合の部で準優勝、冬の全日本戦クイックステップの部で準優勝と全日本連続準優勝という記録を打ち立てます。全日本選抜総合準優勝という成績は、その後現れる多くの優秀な後輩たちにも破ることができない、現在も大学の最高成績です。個人で2種目優勝し、史上初のレギュラー戦団体優勝の立役者にもなります。私がかつてなりたかったクイックステップでのファイナリストやチャンピオンに三森はなってくれたのでした。あのモダン弱小校だったところからこれだけの選手が育ったことに感動しました。
彼の代は、卒部後にパートナーとなる酒井良美を含めて、5名がプロ選手になります。これ以降、数多くのプロ選手をALL東京理科大学舞踏研究部は輩出し、その多くはモダン(スタンダード)専攻の選手となります。
部内底辺から全国2位まで駆け上がった三森秀明の存在が社会人になってからの私の人生を変えることになりました。
私は大学を卒業して一般企業に就職しました。その企業なのか、サラリーマンという仕事なのか、両方なのか。就職してすぐに嫌気がさしていました。毎日が楽しくない。上司が嫌。会社が嫌。心身ともに疲弊して社会人3年目に入院することになります。9日間の入院で次の人生を考えようと決意しました。その時に頭に浮かんだのが、競技ダンス選手をサポートする、というもの。少しだけプロを考えたのですが、やっていけるだけの実力もありませんでしたし、相談した先生からもやめておきなさいと言われ。当時アマチュアで組んでいた相手ともプロ転向するならやりませんと断られ。早々にその選択肢を消して、今の仕事を選ぶのです。
退院後に体調を戻して脱サラ活動を開始。専門学校を調べて退職後にすぐ入学できるように手はずを整えます。出役はできないが裏方ならできる。むしろその方が自分には才能があると感じていました。その源泉は三森との関りでした。
三森秀明は卒業後に酒井良美とカップル結成。アマチュアで数年間経験を積みながら実績を作ります。そして卒部から数年してにプロ転向を果たします。その所属先が神田にある奥山ダンススクールでした。奇しくもその当時、私は神田駅前商店街のリラクゼーション店でバイトをして実務経験を積んでいたのです。プロ転向したばかりのペーペーだった三森秀明とまだ国家資格を取得していない20代の私。その時に二人が過ごした理科大がある「神楽坂」という日本酒を持って行ってプロ転向をお祝いしたのでした。
それから私はあん摩マッサージ指圧師、鍼灸師、柔道整復師と国家資格を取得。それと専門学校の教員免許も。鍼灸整骨院、クリニック、大学病院と職務経験を積みながら独立開業します。競技ダンス選手が来るだろうと見越して北区十条の地に就職することから始まった臨床家人生。9年前に自分の場所を持つことに至り、理想としていた院を造ります。
三森秀明と酒井良美は競技会、デモンストレーション、海外留学などを多数経てプロスタンダードA級になります。JBDF東部のA級になるのは本当に難しく、当時は今よりも選手層が厚かったのでなおさら大変だったはず。それから数多くの学生競技ダンス選手の生徒をみるようになり、教え子から全日本チャンピオンが生まれます。
当院にOBを含めて多くの学連選手が来院しましたが、その中のかなりの割合で三森組の教え子が占めます。関係を知って来る選手もいれば、知らないで来る場合も。知らない選手に、三森の先輩だというと驚かれます。そして私はこれだけ多くの生徒がいる三森・酒井の二人に驚きます。また三森に習っている選手か、と。間接的に仕事で連携しているような気持ちになるのです。
競技ダンスのファイナリストを目指したかつての私は、越えられない壁を前にくすぶります。これからというときにカップル解消。そのときに情熱を向けたのが後輩三森秀明でした。三森の成長は自分の強みに気付かしてくれました。卒部後少しアマチュア競技に出ていましたが、未練なくあっさりと競技引退をして勉強と研究を始めます。それは競技会よりも遥かに大きな成功体験があったから。20代半ばで道を決めたことが今に活きています。三森も酒井良美も「お世話になりました」と言ってくれるけれど、進むべき道を間接的であれど示してくれたのは君たちでした。
長い競技生活に区切りをつけた二人の決断。そこで顧みたときに「人生の恩人」だと改めて感じました。
ありがとう、そしてお疲れ様でした。
追記:
自分が大学4年生の時。東部Ⅱ部戦。前年この大会を最後に前パートナーとカップル解消。最上級生として挑んだ大会。焦っていたのか昼休みに自分のシューズを紛失。見当たらない。困ったのでフォーメーション出場するためにシューズを持ってきていた三森のシューズを急遽借りて準決勝へ。そして見事決勝に。その後自分のシューズが見つかるものの、ゲン担ぎのため三森のシューズで決勝も踊る。競技ダンス最初で最後のトロフィーをもらった経験。そのトロフィーは今でも院に飾っている。これをもたらせたのは三森のシューズ。そういう意味ではダンスでも恩人なのである。
甲野 功
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