開院時間
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海外でも大ヒットを飛ばしている新海誠監督作品『すずめの戸締り』。とても写実的に現実にある街並みを描くことで知られる同監督。最新作の『すずめの戸締り』では御茶ノ水駅周辺が描かれていて見慣れた風景に映画館で、知っているぞと思いました。
その御茶ノ水駅からすぐのところに湯島聖堂があります。実は前はこの湯島聖堂が神田明神だと思っていました。神田明神へきちんと参拝したあとにあの史跡は一体何だろう、と疑問に思いました。御茶ノ水方面は中学生の頃から自転車でうろうろしていたところ。何か歴史的な建物があることは知っていたのですが、中を訪れたことがありませんでした。一体どういうところなのでしょう。
<史跡 湯島聖堂>
調べてみると江戸時代、江戸幕府5代将軍徳川綱吉が関わっていました。綱吉は按摩師、はり師にとって非常に重要な人物である杉山和一検校を見出したことで馴染みのある将軍。私が訪れた東京(江戸)の史跡にはかなり関わっている人物です。初代家康、2代目秀忠、3代目家光に比べると地味に映りますがなかなか色々な史跡に関わっていると思います。
その徳川綱吉が儒学の復興を図るため、上野忍岡(現在の上野恩賜公園)にあった林羅山の私邸内に設けられた孔子廟と私塾を元禄3年(1690年)に湯島の地(現在の場所)に移しました。孔子廟を大成殿と改称し規模を拡大させ、官学の府とします。大成殿と附属の建造物を総称して聖堂と呼ぶようになりました。これが湯島聖堂の始まりです。私はお寺だと思ったのですが学校だったのですね。「日本の学校教育発祥の地」とされています。
さて林羅山とは。名前は歴史の教科書で見たことがあるくらいでどのような人物か知りませんでした。調べてみると。天正11年(1583年)~明暦3年(1657年)を生きた江戸時代初期の朱子学派儒学者です。その後続いていく林家の祖。生まれは京都で幼少の頃から秀才と言われ文禄4年(1595年)に建仁寺で仏教を学ぶも出家を拒否。儒書に親しみ南宋の朱熹(朱子)の章句や集注(四書の注釈)を研究します。師のもとで儒学の朱子学を学びました。師の薦めで慶長10年(1605年)に二条城で徳川家康に謁見。23歳という若さで家康のブレーンの一人となるのです。徳川家を支える臣下として活躍します。豊臣家が滅ぶ原因となる『大阪冬の陣』を起すきっかけとなる、南禅寺禅僧の銘文中にある「国家安康」「君臣豊楽」という文言は徳川家を呪詛するものという意見を出しました。2代目秀忠、3代目家光、4代目家綱まで徳川4代に仕えた識者でした。林羅山のことを今回調べてみて私と意外な接点があることが判明しました。その件についてはまた別の機会に紹介します。湯島聖堂は林羅山が間接的に造ったものといえるわけです。
湯島聖堂ができてから約100年後、11代将軍徳川家斉の時代。寛政9年(1797年)に幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」が開設されます。
徳川幕府の時代が終わり明治維新を迎えると湯島聖堂は新政府の所管するところとなり、明治4年(1871年)にはこれを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年続いた歴史に幕を閉じます。大正11年(1922年)に国の史跡に指定されるも、翌年大正12年(1923年)に関東大震災が起こり被災し、わずかに入徳門と水屋を残しその他の建造物が焼失してしまいます。現在の湯島聖堂は昭和10年(1935年)に再建されたものとなります。
御茶ノ水駅からほど近い場所に広々とした土地が残っていて、その光景はコンクリートジャングルと言われる都会とは思えません。儒教がベースにあるのでどこか大陸の風景を感じさせます。
聖橋門から湯島聖堂に入ると、まず入徳門が現れます。関東大震災でも焼失することなく残った唯一の木造建築です。切妻造り。宝永元年(1704年)に建造。入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」によります。
入徳門をくぐり階段を上ると杏壇門が現れます。杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。黒く20mという広い間口が重厚です。
杏壇門の先には大成殿があります。大成とは孔子廟正殿のこと。大成殿も黒色で統一され屋根に神獣が飾られており、日本の神社やお寺と趣が異なります。
大成殿を後にして入徳門を出て進むと孔子銅像があります。儒教の施設ですから当然といえます。こちらは昭和50年(1975年)に中華民国台北市ライオンズ・クラブからの寄贈されたもの。大きさが4.57m、重量約1.5tという世界最大の孔子銅像です。
昭和10年(1935年)に作られたのが仰高門。鉄筋コンクリート造。仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」によります。
湯島聖堂は日本の教育機関の祖と言える史跡。ここから大学や博物館、省庁が発展していったといいます。一等地にあそこまで広い敷地を残しているのはそのような理由があるからでしょうか。本当に日本らしくないというか中国の雰囲気を感じる史跡です。普段は神社、お寺をよく見ているのでその違いが際立ちます。中を歩くと日本を離れたような気分になります。
甲野 功
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