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~折鍼事件から学ぶ~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 昭和63年折鍼事件
昭和63年折鍼事件

 

 

はり師(鍼灸師)にとって特に注意しなければならない過誤が気胸です。これは刺鍼により肺に穴が開いてしまう、外傷性気胸を起してしまうことです。肺の範囲は想像以上に広く、一部は鎖骨の上まで及びます。肩上部、肩甲間部、背中、脇と鍼が肺まで達してしまう可能性がある個所は体幹部に広くあります。最近でもSNS上で鍼を受けて気胸となり入院したというケースや優秀な陸上選手が鍼施術後の気胸により大会を欠場したという情報がありました。鍼灸専門学校では特に気胸を起さないように実技授業で指導します。なお自然気胸という外傷がなくとも気胸になってしまう場合もあります。

 

気胸の次に注意するのが折鍼(せっしん)でしょう。これは身体に刺入した毫鍼の鍼体が折れてしまい、体内に鍼が残ってしまうことです。鍼が折れてしまった場合、速やかに残った鍼先を抜くことができればいいのですが、それがかなわなかった場合は外科的処置(手術)で対応しなければなりません。そうなるといち鍼灸師には手に負えることではなくなります。折鍼が起きないように、鍼灸専門学校における実技の授業で指導します。

昨年春にはプロ野球ソフトバンクホークスの投手選手が腰の鍼施術中に折鍼事故が起きてしまいました。このときも体内に残った鍼を抜くことができず医療機関に行き、手術をして抜去してもらいました。

 

折鍼ははり師にとってとても注意しないといけない事例です。

 

しかしどのような状況で折鍼が起きるのか分からないことがあります。正確な資料が多いとは言い難いです。きちんとした報告書というものを約20年間この業界にいますが数例しか見たことがありません。それも簡素なものが少なくなく。そのような現状の中、裁判として扱われた折鍼事件の判決文があり、こちらが非常に詳細に当時の状況が記載されています。過去から学ぶ。東京地裁で出された判決文からどのように折鍼事故が起きたのかを知り、予防策を講じてみたいと思います。

 

東京地方裁判所 平成元年(ワ)6891号 判決

 

なお被告、原告の個人情報には極力触れず、臨床の現場で起きたことを客観的にみていくよう努めていきます。

 

概要

頚部に刺した鍼が折れてしまい体内に残る。手術をしても残った鍼を摘出することはできなかった。

 

判決文から状況を抜粋して羅列しました。

①昭和63年(1988年)7月19日、鍼灸院に来院した原告(以下、“患者”と表記)が鍼灸院で被告の一人(以下、“術者”と表記)による鍼施術を受けた。

 

②術者は昭和63年3月に専門学校を卒業、同年4月13日にはり師免許を取得した。

 

③患者は鍼施術を受けることに慣れており、かつ過去2回、術者の鍼施術を受けていた。従来から肩をはじめとする全身の痛みに悩まされていた。

 

④術者と患者は親類同士である。

 

⑤用いた鍼は複数回使用の鍼で単回使用のディスポーザブル(使い捨て)鍼ではない。その都度、滅菌機で滅菌して使用する鍼であった。

 

⑥術者は患者を仰向けに寝かせ、両足の「伏兎」穴から順に「太衛」穴まで計18本の鍼を刺した。そのうち「伏兎」穴、「血海」穴、「三陰交」穴及び「解渓」穴に刺した鍼に電極を接続して「低周波パルス通電」を5分ごとに電極を切り換えて約10分間通電した。そのあと鍼を抜いた。術者は通電している間は、電極を切り替える時を除き、施術室から出て控室において待機していた。このとき、鍼に特に異状は認められなかった。

 

⑦続いて術者患者をうつ伏せに寝かせ、「完骨」穴から順に左右「風池」穴を含め「崑崙」穴まで、計42本の鍼を刺入した。

 

⑧術者は「風池」穴に鍼を刺入する際に原告の髪の毛をかき分けて皮膚を露出させ、反対側の眼の瞳の方向に向け約3cm刺入した。「風池」穴に刺入した鍼は鍼体部分が40mm鍼柄部分が18mm鍼体の直径が0.22ないし0.24mmのステンレス製の鍼であった。

 

⑨術者は「天柱」穴、「大腸兪」穴、「腎兪」穴及び「崑崙」穴に電極を接続し、「低周波パルス通電」を5分ごとに電極を切り換えて約10分間通電した。なお、術者は仰向けのときに同様に電極切り替え時を除き施術室から出て控室で待機していた。

 

⑩約5分後に電極を切り替えるため施術室に入室した際、鍼の様子に特に異状は見られなかった。

 

⑪パルス通電が終了し術者が鍼を抜きはじめたとき、患者の左「風池」穴に刺入されていた鍼が鍼柄から鍼体を約1cm弱残して折れ、残りの約3cm程度の鍼体が患者の体内に残置されていた

 

⑫術者はピンセットで体内に残った鍼を取り除こうとしたが、刺した部位の皮膚がやや隆起しているだけで、折れた鍼の切断面が露出していなかったため、取り除くことができなかった。

 

⑬その後、患者は日本医大病院で診察を受けることになった。

 

⑭レントゲン検査の結果、体内に残った鍼は患者の延髄の方向に向いていることが明らかとなる。担当医師は入院させて経過をみることにする。翌日の7月20日に実施されたCT検査により、残った鍼は患者の第1頚椎と後頭骨の間から脊椎管腔に入り込み、先端が延髄の方向を向き、硬膜を超え硬膜下腔内に達しているものと診断される。残った鍼の先端が第1頚椎と後頭骨間の隙間から脊椎管腔の中に入り込み、今後筋肉の動きによって前方に進むことが予測された。担当医師は極めて危険な状況にあると判断し、7月21日に同月26日に摘出手術をすることを内定する。なお、患者に対する手術の同意は7月22日にとられた。

 

⑮鍼摘出手術は7月26日に行われたが、鍼が脊椎管腔に入り込んでいたこと、頚椎の間の極めて細い隙間を切り開いて鍼を探索せざるをえなかったこと、多量の出血を伴う部位であったこと等から手術は困難を極めた。手術中、鍼は術前よりも奥に入り込んだことが確認されたが、後頭部から切り進めるのはもはや限度に達していたことや、鍼は延髄周辺の危険な位置には存在せず、筋肉からは切り離され、それ以上移動する可能性が少なくなったことが確認されたことから、担当医師は鍼を取り除くことなく手術を終了することを決定。8時間を越えたが鍼の摘出には成功しなかった。

 

⑯術後の検査によると体内に残った鍼が5mm程度短くなっていることが認められた。それは手術中に血液を吸い取るための吸引器によって吸い取られたものと推測された。

 

⑰手術後、患者は経過を見るため入院を継続したが、7月29日のCT検査によれば鍼は大後頭孔に入り込み、クモ膜下腔を通過しているが、延髄を回避する位置にあると診断された。その後、何回かのCT検査においても鍼の移動は認められなかった。また患者には特にこの件と因果関係があると思われる症状も認められなかった。体内に残った鍼は手術前より奥に入り込んだものの、延髄を迂回する位置にほぼ固定され危険がなくなったと判断され、患者は9月16日に退院した。

 

⑱その後のCT検査によっても、体内に残った鍼の位置に変化は見られなかった。患者は摘出のための手術あるいは体内に残った鍼の影響による激しい頭痛、右手小指及び薬指のしびれ、耳鳴りと難聴、左目の視力低下及び手の筋力低下等の後遺症に悩まされたと主張。また体内に残った鍼の影響でMRIによる診断を受けられない。平成元年(1899年)2月に突然意識を失って倒れるという症状も出ている。

 

 

専門的なところ、補足する内容を項目ごとに挙げていきます。

 

②術者ははり師免許を取ったばかりの新卒、ルーキーであった。なおはり師免許が厚生労働省管轄の国家試験になるのは1992年からなので1989年当時は都道府県管轄の免許である。術者は親類が経営する鍼灸院に勤めていた。この裁判では監督者として院長も訴えられている。

 

③患者は鍼施術を受けることに慣れているということは、一般的に刺鍼時の筋緊張や急な体動があるとは考えにくいと言えよう。また術者も受け慣れているという安心あるいは慢心が生まれる可能性があると言えよう。

 

④親類同士ゆえの術者の気の緩みが出た可能性も推測できる。

 

⑤判決文の『治療に用いるたびに鍼を加圧殺菌し、その後これを肉眼及び指先でしごいて腐食、欠損等の有無を点検し、異状がないことを確認して使用していた旨陳述している』という文面から。この1989年では複数回使用する鍼が用いられていたと思われるが、現在では推奨されておらず、ほぼワンユース(単回使用用)のディスポーザブル鍼が用いられる。

 

⑥「伏兎」、「太衛」、「血海」、「三陰交」、「解渓」とは経穴の名前であり全て下肢にある。「低周波パルス通電」は刺した鍼に電気のパルス波を通電させる技術。電食という鍼が腐食することが知られている。通電中に術者が患者のそばを離れていた。

 

⑦「完骨」、「風池」、「崑崙」は経穴の名前。「完骨」と「風池」は後頭部で首と頭の境目に、「崑崙」は外くるぶしに位置する。

 

⑧「風池」穴への刺鍼方法は教科書通りと言える一般的な刺し方。判決文では髪の毛をかき分けただけでは髪の毛の重みが鍼にかかって鍼が折れやすい状況になるとしている。鍼体部分40mm、鍼体の直径が0.22ないし0.24mmのステンレス製の鍼ということから「寸3-4番」、「寸3-5番」の鍼だとわかる。

 

⑨「天柱」、「大腸兪」、「腎兪」は経穴の種類。「天柱」は後頭部で首と頭の境目、残り2つは腰にある。「低周波パルス通電」を約10分間通電した。短くはないがとても長い時間通電したとは言えないと思われる。

 

⑪毫鍼の構造上、鍼柄と鍼体の接合部が外れやすい。しかしこの事件では鍼体が折れている。

 

⑭延髄は頚部にあり呼吸中枢を司る。ここを損傷すると即死の危険がある。

 

⑱患者の退院後に後遺症として主張する症状は、それらは鍼が体内に残っていることと摘出手術によるものであると認めるに足りる証拠はない、と裁判では判断している。

 

他にも原告(患者)、被告(術者)の主張が判決文にはあるのですが、割愛します。裁判は術者の過失だと判決を出しています。

 

臨床家としてこの判決文から得た情報をみると鍼の管理不足が原因と考えられます。現在のような使い捨てではない鍼では、滅菌機にかけるたびに劣化すると言われています。何度使用したのかは情報がありませんが鍼体が脆くなっていのでしょう。そこに低周波パルス通電という鍼が腐食(電食)しやすいやり方を用いた。電気出力、周波数の数値が提示されていないのですがパルス通電による電食が折鍼の原因の一つと考えられそうです。鍼体の途中で折れているということからも推測されます。

術者の技術が未熟だったのか判断がつかないところであります。身内の院で親類に行った鍼施術という状況を考慮すると気の緩みが生じたのではないかとは思いました。それは監督する立場にあった術者の親類にあたる院長にも。

 

今回30年以上前の折鍼事故の詳細を判決文から考えてみました。この判決後からだと想像しますが、パルス通電には注意を、毫鍼はディスポーザブル(使い捨て)のものを用いる、ということが周知徹底されていった。今ではオートクレーブ(高圧蒸気滅菌機)を置いてある鍼灸院は数を減らしています。鍼の製造技術もこの頃より向上しているといわれています。

過去の出来事から学び、反省し、明日に活かす努力をします。

 

甲野 功

 

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