開院時間
平日: 10:00 - 20:00(最終受付19:00)
土: 9:00 - 18:00(最終受付17:00)
休み:日曜、祝日
電話:070-6529-3668
mail:kouno.teate@gmail.com
住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202
私は2014年の3月に東京医療専門学校鍼灸マッサージ教員養成科(以下、教員養成科と記載)を卒業しました。それが最後の学校生活。小学校、中学校の義務教育からはじまり大学と複数の専門学校を間があきながら進学し、あん摩マッサージ指圧師、鍼灸師、柔道整復師の資格を取得してきました。最後に、鍼灸マッサージ専門学校の教員免許を取るため、更なる技術と知識を得るためにが最後に通ったのが教員養成科でした。
教員養成科は鍼灸師資格を持つ者が入学します。東京医療専門学校の鍼灸科だけなく、他校の卒業生も。全国から生徒が集まります。私は教員養成科30期なのですが同級生は北海道から鹿児島まで全国の鍼灸専門学校から集まりました。その数合計28名。2年間の学生生活を経て、卒業後はまた全国に散っていきました。専門学校の専任教員、非常勤講師になった者。私のように開業して独立して仕事をしている者。勤務している者、別の業界で働いている者。卒業後の進路は様々です。
同級生の中に、今年11月26日に還暦を迎える人がいます。その還暦祝い、そして来年の卒業10周年を祝う意味合いで集まろうという企画が立ち上がりました。場所は還暦となる同級生が住む静岡県浜松。その同級生は10年前の教員養成科在学時、月曜日の朝に新幹線で浜松から東京にやってきてカプセルホテルで4泊し金曜日の授業後にまた浜松に帰る、という学生生活を2年間続けました。今度はみんなが浜松に行こうという意味合いもあると思います。また今年開業したので新しい鍼灸院を見学するという目的も。そこで25日、26日の土日で浜松の浜名湖湖畔にあるホテルで一泊するイベントが立ち上がり、参加してきました。
土曜日は仕事を早めに切り上げてJR市ヶ谷駅から総武線と中央線で東京駅へ。同じ週の月曜日に行った京都日帰り旅行と同じルートです。週に2回も新幹線に乗ることなどまずありません。時間の関係でひかりが間に合わずこだまに乗ります。16時17分に浜松駅に到着。浜松は大学卒業後に新卒で就職した半導体商社時代に出張で来た以来。仕事以外での目的では行ったことがない駅になります。そのとき、つまり約20年前の記憶と浜松駅前の風景が記憶とずいぶんと変わっていて面食らいました。そこから遠州鉄道バスにのり浜名湖方面へ向かいます。事前に調べていたのですが初めての土地でしかも路線バスだと緊張してしまいます。行き先は合っているのか、きちんと目的のバス停で降りられるのか。子どもの頃から迷ったら歩いて帰れるように外の景色を観察する癖がついています。バスに揺られること50分。あたりはもう暗くなっていていました。浜名湖ほとりのバス停を降りて宿へ。
部屋に入ると先に到着していた同級生の面々メンバーによっては約10年ぶりの再会となりました。今回は当時の恩師を含めて8名が参加。全員男性でした。直前にインフルエンザ罹患で参加を取りやめた人もいました。東京、埼玉、千葉、岡山、福岡から集まりました。東京からの私は近い方です。
ホテルで温泉入浴、夕食、歓談。翌日は朝から温泉に入って朝食。ホテルをチェックアウトすると浜松城公園にある『どうする家康 浜松大河ドラマ館』を観光。今年の大河ドラマ「どうする家康」に乗っかり1年間限定の施設です。大河ドラマに関する展示資料をみて記念撮影。そしてお土産を購入して解散という流れ。私は歩いて浜松駅に行き東海道新幹線こだま自由席に乗って東京駅へ。14:30頃には帰宅しました。なかなか経験のない会社の慰安旅行のような体験をしてきました。
観光はもちろん良かったのですがやはり交流が重要でした。10年前、平日の朝から晩まで学校で勉強をしてきた同級生。そして当時の先生。その時点で鍼灸師というプロでありましたが、多くは新卒でまだ実績が乏しかった同級生たち。既に柔道整復師を取っていてそちらのキャリアがあった人もいましたが。あん摩マッサージ指圧師、鍼灸師になってから5年、柔道整復師になってから1年経過した状態で教員養成科に入学した私とは状況が異なりました。入学当初はつい1月前まで国家試験の勉強をしていた人たちという目で見ていました。卒業後5年、10年して集まったらどうなるだろうと漠然と思い描いていたものでした。それくらい現場経験が無いよな、という気持ちだったのです。しかし教員養成科での学生生活が進むと心境が変化します。鍼灸師免許を取得して、敢えて更に勉強しようと進学した者たち。当然ですが強い意志がありました。当時最年少の21歳(鍼灸師は最短で21歳でないとなれない)の同級生も、既に40代後半、50代の同級生も。むしろ国家試験から5年も期間が空いている私より鍼灸の知識量があります。鍼灸師国家試験は年々難易度が上がっており、授業で行った近年の過去問題を私は満足に解けませんでした。また私は東京医療専門学校しか知らないのですが、最初に述べたように北は北海道・南は鹿児島まで全国の学校から集まっているため、母校の特色が垣間見えます。東京医療専門学校の母体である呉竹学園は東京・新横浜・大宮と3校持っていて、私の同級生が大宮校初の卒業生でした。同じ呉竹学園でも3校の違いが大きいことをそのとき知ります。様々なバックボーンを持ち、出身も年齢も経歴も多様な28名のメンバーが30期として教員養成科に集まったのでした。
卒業して約10年。私も含めて色々な経緯が各自ありました。仕事のこと、生活のこと。開業や転職。結婚、出産。変わらないこともありましたが変化したことも。やはり今何をしているのかという近況報告がたくさん交わされました。
話題がたくさんありましたが私が特に注目したこと。それが各々後進を育てていること。教員となって授業を持っている人は直接的に学生を指導しています。専任教員、非常勤講師を問わず。それだけでなく開業している人は鍼灸業界に興味を持っている方の相談に乗り、鍼灸専門学生さんが来院して話をするなど臨床側の立場から育成に携わっています。10年以上前に鍼灸師ルーキーとして教員養成科に入学した同級生たちが今は次世代の学生さんらと交流しているのです。母校の前校長が話をしたことなのですが、「教員養成科を卒業した者は教員をしているか否かは問わず、全員が後輩を育成する立場にあると考えている」と言い、育成する義務もあるのだという見解でした。現在、鍼灸マッサージ専門学校の教員を育成する厚生労働省認可の学校は全国に4校しかなく(※視覚支援学校・盲学校の教員は別)1年間に輩出する教員の半分が東京医療専門学校の教員養成科からという現状。各地で同級生たちが自分たちのことだけでなくこれからの人材育成に着手していることに驚きと感動を覚えました。昨今、(あん摩マッサージ指圧師や柔道整復師などの他職種免許を持たない)鍼灸免許のみの鍼灸師が、鍼灸施術を生業にして生き残ることは困難だと言われています。国家試験を通過して免許を取得しても少なくない割合の鍼灸師が数年で廃業して別の仕事に就くのだとか。教員養成科卒業者は、立場は様々ですが、得た知識や経験を次世代のために貢献していくことが必要だと思っています。
次に感じたことは専門知識の話。個々で技術のこだわり、仕事への姿勢が確立されています。教員養成科時代にも日々話をしましたが、今は実績が伴っています。鍼灸技術は広くて深い。聞いたことのない人物や手法がまだまだあるのだと知りました。同時に業界状況の情報交換も。10年どころか3年ひと昔と言われる時代の流れが速い現在、何がいま起きているのかを知ることが重要です。それは学校関係者にも、開業している臨床鍼灸師にとっても。今回は関東以外の地方に関しても生の情報を得る機会になりました。コロナ禍を経てどうなっているのか。全国から集まる教員養成科の利点だと思います。なによりこのような機会がなければ浜松に行くことはなかったはず。ちょうど大河ドラマフィーバーに沸く状況をその目で見ることができ、貴重な体験でした。京都や箱根とも違う浜松という都市のことを知る経験です。
最後に同級生の還暦祝いから考えたこと。幅広い年齢層が同じく学べるのが鍼灸業界なのだと再認識しました。還暦ということは10年前は50歳。40代後半で鍼灸師になろうと専門学校に入学したわけです。現在の私の年齢よりも更に上のときに、新しい世界に挑戦しました。相当な勇気と覚悟が必要だったとうかがえます。私が数年後に全く別のジャンルに挑戦するために学校に入学するかと言われたら、たぶんできないでしょう。それだけの魅力が鍼灸師にあるのだろうなと。そのような対象はなかなか存在しないのではないでしょうか。私は20代半ばで鍼灸マッサージ専門学校に進学しましたが、60代の同級生もいました。下は18歳から上は60歳。親子どころか孫に近いくらいの年齢差がありながら同じ教室で学ぶ。年齢を重ねてもやってみようと惹きつける魅力がこの世界にはある。これまであまり気にしていませんでしたが、そうなのだろうと。鍼灸師そのものだけなく教員養成科についても。
在学時にも泊りがけのイベントがクラスで企画されたことがありましたが私は一度も参加しませんでした。入学前の1月に長女が生まれてなるべく家に居るようにしていたからです。私自身も子どもが生まれたばかりなのに仕事を辞めて進学するという相当無茶な決断をしました。子どもが赤ちゃんから乳幼児のとき。保育園に送ってからの通学。その頃の記憶をホテルで寝るときに思い出しました。
旅行、観光、温泉、グルメなど普段できないことを堪能しました。そしてそれ以上に再会と交流、意見交換、情報交換という収穫がありました。
甲野 功
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