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~京都 天龍寺塔頭 弘源寺~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 弘源寺
弘源寺

 

 

昨年に続いて今年は2回京都を訪れました。春は個人的な観光秋は長女を連れて。ここ数年は毎年年に一度は京都に行っています。京都が好きになったきっかけは高校3年生の春休み、大学進学を目前にしていた頃、の卒業旅行でした。幕末の歴史が好きな山岳部の同期2名と高知県と京都を巡る旅でした。幕末と高知で察しが付く方は多いでしょう。坂本龍馬中岡慎太郎らの土佐志士の足跡を巡るために高知へ。そして幕末の中心地、京都。高知県も京都府もこのときが初めてでした。京都では天龍寺、三十三間堂らを巡りました。三十三間堂の千手観音像が並ぶ様に圧倒され、天龍寺と桂川の雰囲気に心が躍りました。その時から京都に魅了されたのです。

 

時間が経って妻と結婚するというとき。海外旅行が多かった妻はあまり国内の旅行はしていませんでした。箱根、日光といった定番観光地を周りました。そして私の希望で京都に行こうと。奈良・京都を巡る旅行に出かけました。その際に妻の希望で訪れたのが天龍寺でした。ただ酷い豪雨でした。世の中でゲリラ豪雨という言葉が初めて登場した頃。トロッコ列車から保津川ライン下りをしようとしたのですが豪雨のため中止。電車でまた嵐山に戻りました。雨宿りの目的もあり天龍寺に行き、お堂の中で座りながら大雨の庭園を眺めていたものです。高校以来の天龍寺はあまりいい思い出ではありませんでした。靴下まで濡れてしまって。

 

そして昨年。もう一度大人になった目で天龍寺をしっかりと見てみようと思いました。京都五山第一の名刹。高校生のとき連れて来られただけの一度目。大雨の中気持ちが沈んでいた二度目。三度目の正直ではないですが知識が豊富になった今、天龍寺を拝観する。隅から隅まで巡った天龍寺はとても広く、これまでは気付かなかったものがたくさんありました。その中に弘源寺があります。弘源寺とは天龍寺境内にある塔頭寺院です塔頭とは、禅宗寺院で祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い大寺・名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院のこと。塔中、塔院、寺中、院家とも言われます。

 

今回は天龍寺の塔頭寺院である弘源寺に触れます。

 

弘源寺 - 臨済宗大本山天龍寺塔頭寺院

 

弘源寺は臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の塔頭寺院で天龍寺境内にあります。天龍寺は非常に有名なので場所を示すのは今さらという感じですが、嵐山駅からすぐ。桂川と渡月橋の近くにあります。とても広い敷地を誇ります。総門と中門をくぐり抜けて進むと右手に弘源寺があります。

 

永享元年(1429年)に室町幕府の管領であった細川持之公が天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建しました。細川持之公の院号をもって弘源寺の寺号としました。本堂は客殿形式で江戸時代(寛永年代)の造営です。本尊は聖観世音菩薩、いわゆる観音様です。本堂と山門が京都府暫定登録文化財の登録を受けています。毘沙門堂の天井には日本画家初代藤原孚石筆による四季草花48面の絵画が有ります。また正面扁額は弘法大師の直筆です。

 

弘源寺で一番注目したのが本堂内の柱に残る刀傷です。これは「蛤御門の変」の際に長州藩が天龍寺に陣を構え、その軍勢が刀の試し切りをしたものです。ここら辺は幕末の歴史が好きな私にはたまらないものがあります。「蛤御門の変」(あるいは禁門の変元治の変)とは元治元年(1864年)に起きた事件です。京都を追放されていた長州藩(現在の山口県)が挙兵し会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指しました。御門とあるように朝廷に対して刃を向けた形となり、このことにより長州藩は朝敵となります。その後の長州征伐へと続くきっかけになります。このとき京都市中は約3万戸が戦火により焼失したといいます。「蛤御門の変」の前にかの有名な「池田屋事件」が起きています。この事件は長州藩が京の都に火を放ち天皇をさらって長州に連れて帰ることを画策していところ、新選組が未然に防いだもの。この「池田屋事件」によって新選組の名は大いに広まります。「池田屋事件」、「蛤御門の変」、「長州征伐」とのちに明治政府の中枢を担う長州藩は、このとき窮地に追いやられるのです。この時代のことは高校生の頃色々な資料を読んで、また山岳部の同級生と話をして、想像を膨らませたものです。最近ですと実写版『るろうに剣心』の映画で描かれていて、昨年長女と京都を訪れた際には街並みを歩きながら説明したものでした。

長州藩士の刀傷。歴史の証拠が残っていることに感動を覚えます。事情を知らなければただの傷ですが。高校卒業旅行ではその存在に全く気付きませんでした。記憶が曖昧ですが天龍寺と蛤御門の変の関係もみんな知らなかったように思います。

 

中学校も高校も修学旅行は京都ではありませんでした。もしも京都だったとしても対して興味なく、事前に調べることもなく、どこの神社にいったのかどの寺を歩いたのかもよく理解しないまま終わったことでしょう。この年齢になり腰を据えて境内をくまなく拝観し、かつ知識が豊かになったからこそ気付いたものでした。大人になってからの修学旅行、社会科見学。高校2年生から理科系コースに進んだ私には遅い文系学習です。

 

甲野 功

 

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