開院時間
平日: 10:00 - 20:00(最終受付19:00)
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今回は鎌倉のお寺を紹介します。20年くらい前に鎌倉に住む同級生にいいところがあると連れていったお寺がありました。そのときはついて歩いていくだけ。今ほど神社仏閣に興味がなかったのでそこがどこだったのか覚えていませんでした。後々あれはどこだったのだろうと記憶をたどり歩いた結果、確かここだったと思います。それが妙本寺です。
鎌倉駅から小町通りや鶴岡八幡宮の方に向かわず西に向かいます。本覚寺の先、滑川を渡り歩いていくと妙本寺総門が現れます。横に比企谷幼稚園があります。お寺は寺子屋があったように幼稚園など教育施設を作ることが多く、神社より多いと思います。この総門は関東大震災で倒壊したものの2年後の大正14年(1925年)に再興されました。総門をくぐると妙本寺の境内に入ります。
妙本寺は日蓮上人が開山した日蓮宗最古の寺院となります。開基は比企大学三郎能本。妙本寺がある土地は比企族が住む谷戸(やと)であったところから「比企谷」と呼ばれていました。比企一族は鎌倉幕府初代将軍源頼朝公の乳母を務めた一族でした。ところが3代将軍をめぐる北条時政の謀略によって建仁3年(1203年)「比企の乱」で比企一族は滅ぼされます。この時、生き延びたのが開基の比企大学三郎能本であり、鎌倉で布教する日蓮上人と出会い自らの屋敷を献上しました。これが妙本寺のはじまりです。日蓮上人は文応元年(1260年)、この寺を「長興山妙本寺」と名付けたのでした。正式名称を日蓮宗霊跡本山比企谷妙本寺、山号を長興山。池上法縁五本山の一つになります。
総門をくぐると左手に細い上り坂が現れます。まっすぐな広い道がありますが先に細い横道を歩いてみました。その細道を登っていくと蛇苦止堂が現れます。蛇苦止堂とは妙本寺の守り神(鎮守)蛇苦止明神を祀るお堂です。「比企の乱」の50年後、北条政村の娘が何かにとり憑かれてのたうち回り苦しみ、「北条家に恨みがある。わらわは讃岐局。今は蛇身を受け、比企谷の土中で苦しみを受けている」と語りました。日蓮上人はこの怨霊を成仏させて蛇苦止明神と名付けて祭ったのでした。日本は害をなす怨霊を反対に神格化して味方にしてしまうことがままあります。平将門の首塚も恨みをもって亡くなった平将門の怨念を、関東を守る結界へと転化したもの。その脇には蛇苦止の井という若狭局(讃岐局)が身を投げたという井戸があります。
来た細道を下ると方丈門が現れます。その門をくぐり石段を上ると本堂、寺務所・書院が並ぶ広間に出ます。本堂とは本尊を安置するお堂の総称です。現存の本堂は昭和6年(1931年)に建立されました。本堂のとなりに、その先を少し上がったところに鐘楼堂があります。建物が並んだ空間が参道の横にあり不思議な感じです。
総門の先は長い坂の参道になっています。道幅が広いです。坂道を登っていくと二天門が現れます。天保11年(1840年)に建立されました。二天の名の通り持国天及び毘沙門天が祭られています。門に施された彫刻も、鎮座する二つの仏像にも、目を見張ります。二天門をくぐった先には境内で最も大きな建物があります。それが祖師堂、日蓮宗の開祖である日蓮上人(祖師)を祭るお堂です。現在の祖師堂は天保年間(1830~1844年)に建立されたもので、鎌倉で最大規模の大きさ(十二間四面)です。その大きさは圧倒的でなかなかここまでの規模は珍しいです。鎌倉の中心地から離れたところという印象がある場所なのにこれだけの建物があるとは。二天門の先に現われる姿は圧巻で一見の価値があります。10数年前に見た景色はここだったような気がしたのでした。
妙本寺は文学と関りがあります。仙覚律師之碑が祖師堂左手に建っています。比企一族の人で仙覚律師という天台宗の僧侶がいました。仙覚は寛文4年(1246年)、「万葉集」の校訂に着手しました。その場所が妙本寺新釈迦堂僧坊で、この研究の成果が『文永3年(1266年)本万葉集』であります。明治時代の小説家、詩人である国木田独歩は鎌倉に逗留し「鎌倉妙本寺懐古」という詩をかきました。小説家・翻訳家の長谷川海太郎のお墓があります。作家の小林秀雄は著書『中原中也の思ひ出』の中で昭和12年(1937年)に詩人中原中也とともに妙本寺の海棠(かいどう)を見上げたと記しています。
鎌倉には似た名前のお寺があり、そこまで有名ではないので混乱するかもしれない妙本寺。かつて鎌倉在住の同級生が穴場と教えてくれた名刹です。
甲野 功
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