開院時間
平日: 10:00 - 20:00(最終受付19:00)
土: 9:00 - 18:00(最終受付17:00)
休み:日曜、祝日
電話:070-6529-3668
mail:kouno.teate@gmail.com
住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202
2025年1月17日。阪神淡路大震災から30年です。
1995年1月17日。関西地方を襲った大震災です。当時の私は高校2年生の17歳。当然ながらよく覚えています。30年という節目に阪神淡路大震災を振り返ります。2年前も振り返りましたが30年目ということで再び。特に今年は能登半島地震から1年後ということもありますし。当時の出来事を回想しますがあの震災から得た良い面も挙げていきます。ひとつの例として以下のようなサイト記事がありました。
阪神・淡路大震災がもたらした「正の遺産」|阪神淡路大震災30年
1995年(平成7年)。この年は非常に印象深く記憶に刻まれています。高校2年生、17歳。いわゆる青春真っ只中という年頃。1年後は大学受験という試練があり、まだまだ羽を伸ばせていた時期だったと思います。年明け間もない1月17日の朝、起きるとニュースは関西地方で起きた地震のこと一色でした。時間が過ぎるとともに分かっていく被害の大きさ。高速道路が倒壊し、神戸の街が火に包まれている光景を覚えています。特に印象に残っているのが報道ヘリでレポートする記者が声を詰まらせて火災の様子を上空から伝える中継でした。プロの報道が声が出なくなるという事態に遭遇したのは人生で初めてのことだったと記憶しています。その後正式に阪神淡路大震災という名称がつきました。大震災という言葉は関東大震災以外に聞いたことがなく、それだけの大災害なのだと実感したものです。その1年後の1996年3月。私は大学受験が終わり、山岳部の同級生2名と高校卒業旅行に出かけていました。高知から京都に異動する道中。神戸の街並みを電車の車窓からみたときに、いまだにブルーシートで覆われた家屋が多数残っているのをみてその被害を目の当たりにしたものでした。
1995年は激動の年でした。1月17日の阪神淡路大震災。震災の復興に日本中が注目していたとき。それを覆す出来事が3月におきます。東京の地下鉄サリン事件です。関西の大震災より生活圏の化学テロ。衝撃が違いました。阪神淡路大震災は東京で揺れを感じませんでしたが、地下鉄サリン事件当日は近所にある全ての救急車、消防車が消えました。近所の地下鉄四谷三丁目駅が封鎖。とにかくとてつもないことが起きていると高校3年生になるまえに春休みに思いました。それからオウム真理教強制捜査、国松警察庁長官狙撃事件、山梨県旧上九一色村強制捜査と映画のような事件が続いていきます。理系高校生で化学の知識があるためにサリン生成行程が理解でき、科学がテロに利用されるという事実を叩きつけられました。それ以外にもオウム真理教教団幹部がテレビ中継中に刺されるという事件も。海外から日本の安全神話の終焉と言われました。一連の地下鉄サリン事件、オウム真理教事件は舞台が東京であったものは非常に印象深いわけです。やはり生活圏でない場所の大事件は当事者意識が薄くなるもの。以前長野出身の知り合いに聞いたところ、やはり松本サリン事件は地域が大混乱だったと話していました。1995年はサリン事件一色という印象があるのですが、後々調べてみると阪神淡路大震災が残した影響も非常に大きいことが分かってきます。
特に大きかったのは自衛隊の印象。今では考えられませんが私が小中学生の頃、自衛隊は悪の組織という位置付けで習ってきました。そのように学校の先生に。当時はいかに旧日本軍が悪いことをしたのかを懇々と話をされてその後継とも言うべき自衛隊も悪だと習いました。そのようにはっきりと教える教員は2名でしたが、その主張は激しく、今自分の子ども達にそのような言い方をするならば学校に抗議をするでしょう。それくらい偏った考え、思想だと思いますし、子どもながらに疑問に持っていました。当時の一般的な世論はそこまで極端ではないものの自衛隊という存在は腫物扱いで、自衛隊は軍隊ではないのか、違憲ではないのか、ということが議論されていました。ところが阪神淡路大震災で。あれほどの大災害に対応できるのは自衛隊しかいないということが証明されてしまいます。地元の消防団でバケツリレーで消火しましょうなどと言えるレベルではない。高速道路が倒壊するような状況では一般車両が進むことすらままならないわけです。このときに有事の際に活動できるのが自衛隊であり、有事というのは戦争だけではなく大災害も該当する、ということを理解したと言えます。
阪神淡路大震災以降、特に東日本大震災では救援の要として自衛隊が前線に出たことを忘れません。私は市ヶ谷駐屯地近くに居るので毎日そこからヘリが飛び立っているのを音として聞いていました。阪神淡路大震災という実践がその後の震災、災害対応の礎になったのだと思っています。
阪神淡路大震災から災害時にボランティアに駆けつけることが一般化し1995年は「ボランティア元年」と呼ばれるようになりました。先の東日本大震災はもちろん、熊本地震でも能登半島地震でも中越地震でもボランティア活動に参加する一般の方が増えました。それも阪神淡路大震災の経験そして失敗から始まっているでしょう。炊き出しや支援。良かれと思って送った物資が被災地を苦しめる。準備も覚悟もなく現地に来たボランティアがむしろ問題になる。裏では様々な闇を生んだといいます。その負の面も次回に活かしていくことになります。今は災害が起きるたびにボランティア活動の在り方が議論されています。自分のことは自分で完結できるように(衣食住を被災地に頼らない)。必要なタイミングで必要なものを送る(医薬品なのか食料なのか日用品なのか)。義援金という概念もここ最近のことだと思います。私はあじさい鍼灸マッサージ治療院を開業してから熊本地震が起き、同級生が熊本出身だったこともあり熊本地震への義援金を送りました。また子どものPTA関連で余った会費を能登大雨災害の義援金として寄附しました。東日本大震災以降に定着したものだと考えていますが、ボランティア元年を迎えなければ叶わなかったのではないでしょうか。
民間だけではなくもちろん行政も変化していきます。東京消防庁に高度な救出救助能力を有する隊員と装備で編成される消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)が創設されたのは阪神淡路大震災を受けた1996年12月だそう。2005年には厚生労働省が災害派遣医療チーム(DMAT)を発足させます。1チーム5人(医師1人、看護師2人、業務調整員2人)で構成されるDMAT、初仕事は同年4月に発生した京都のJR福知山線脱線事故だといいます。東日本大震災では火災に見舞われたビルから救助するために東京都知事の命令で東京消防庁のヘリが救援に向かったといいます。阪神淡路大震災によりクラッシュシンドロームという災害時特有の症状があることが認知されて災害医療が進化していきます。私の仕事に関してもDMATに付いていき、救援チームを補助するという取り組みもあります。被災者もそうですが、それを救援する人間の心身をケアするという。巡り巡っての話になりますが、30年前の阪神淡路大震災がスタートだったのかもしれません。
また知名度は低いのですが公益社団法人佐賀県柔道整復師会は災害派遣柔道整復チーム(DJAT:Disaster Judotherapist Assistance Team。“デジャット”)を立ち上げています。DMATの柔道整復師版ですね。発足は平成26年(2014年)ですが発端は阪神淡路大震災でした。このとき有志の柔道整復師は、高速道路が倒壊した際に外傷を負った被災者の応急処置等を行ったといいます。私はこの話を柔道整復専門学校時代に聞いたことがありました。そして現在、あん摩マッサージ指圧師、鍼灸師、柔道整復師の資格を持つ身として、災害初期のときに柔道整復師の役割は小さくないと考えています。急性外傷の応急処置をする技能と権限を持つ柔道整復師。もちろん観血療法(血が出る治療法。主に外科手術。)は禁止ですが、そうでない保存療法は可能です。脱臼・骨折の整復。包帯や三角巾、添え木、厚紙など原始的なもので対応する技術を有しています。そして鍼灸師よりも東洋医学を学ばない分、現代医学知識と急性外傷に対する知識技術が長けています。トリアージされた緊急度が比較的低い軽傷者に対する応急処置を担えるのではないでしょうか。それにより重篤な患者を対応する医師や医療従事者の負担軽減を図れると。緊急時が過ぎて慢性症状が問題になった段階では鍼灸師の役割が大きくなると思います。
阪神淡路大震災から30年。そして能登半島地震から1年。更に地下鉄サリン事件からも30年。震災だけでなく大災害が起きたときにどう動くのか。節目の年に考える機会となります。この仕事に就いた(資格を取った)以上、有事の際に何ができるのかを考えておかないといけません。気持ちを引き締めます。
甲野 功
コメントをお書きください