開院時間
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以前、戦前の昭和初期に東京高等鍼灸学校(現在の呉竹学園東京呉竹医療専門学校)に承淡安という人物が学びに来ていたということに触れました。承淡安は中国人で鍼灸師。中国の鍼灸において多大な功績を残しました。ときに“近代中国鍼灸の父”と称されることも。そのような偉人が私の母校である呉竹学園で約半年学んだという事実に驚いたものでした。今回はその承淡安がどのようなことをしたのかを紹介します。
ネット検索するといくつか人物についてヒットします。
表記によって「承淡庵」「成丹南」「成丹安」「チェン・ダナン」「鄭啓東」などが見受けられます。ここでは日本でよく用いられる「承淡安」という名前で書いていきます。
清代の1893年に生まれ1957年に亡くなっています。江蘇省江陰市で生まれました。幼いころから医学、鍼治療を学びました。1929年(あるいは1932年)に「中国鍼灸研究協会」を設立します。そして中国初の専門雑誌「鍼灸ジャーナル」を発行し、「澄江鍼灸学校」を設立します。1934年~1935年に日本に来て、最初に触れた、東京高等鍼灸学校で学びました。帰国後の1937年に「中国鍼灸大学」を設立します。中華人民共和国の成立後は要職を歴任します。1954年に江蘇省人民代表、中国人民政治協商会議全国委員会委員、江蘇省中医薬学校校長に選出。1955年に中国科学院の生物学および地球科学部門の会員 (学者) に選出。著書に『中国鍼治療学』、『中国鍼灸』、『経絡・経穴図解』、『十四経絡壁図』、『熱性疾患論新注』などがあります。
概略をざっと説明しました。ここに日本側の視点を入れてみましょう。明治鍼灸短期大学(現明治国際医療大学)鍼灸学部を卒業し、明治国際医療大学客員教授、早稲田大学特別招聘講師等を歴任した清野充典氏。清野氏による東洋医学を開設するブログが「朝日新聞DIGITAL マイベストプロ東京」にあります。そこで長期に渡り「東洋医学とは何か」というテーマで執筆しています。そこで承淡安と当時の事情を解説しています。
東洋医学とは何か71 1822年に中国国内で途絶えた中国伝統医療を復興させるため中国人は日本の医学書を大量に輸入しました 1960年に中医学(TCM)が誕生した背景には日本の伝統医学が礎となっています
東洋医学とは何か73 中国の新しい伝統医術である中医学(TCM)は 日本の鍼灸技術を導入して1960年に誕生しました 現在鍼技術は日本のごく一部の技法 灸技術は一つの方法に限定された施術で行っています
中国では清時代の1822年に鍼灸禁止令が出され約100年間鍼灸は禁止となります。鍼灸の復興を目指し日本に学びに来た人がいました。その中心人物が承淡安というわけです。日本で学んだ後、中国に帰国した承淡安は日本の鍼灸学校の教育内容を取り入れます。彼は多くの後進を育成します。1956年、南京に江蘇省中医進修学校(現南京中医薬大学)が創設され、そこの初代校長となります。承淡安の教育方針はその後に出来た中国国内における中医学院教育の基本になるのでした。承淡安が養成した直接の門人は数百名、通信教育等も含めると3千数百人と言われています。門人達は1956年から中国各地に設立された中医学院で教鞭に当たります。このことからも承淡安は直接的にも間接的にも近代中国の鍼灸教育における礎であったと言えるでしょう。
清野氏曰く、承淡安は日本鍼灸の科学化に注目していました。彼の功績は、多くの弟子を育てただけでなく、それまで陰陽五行論(※東洋思想の基本的な理論)を中心に理論展開していた観念的な身体分析から脱却し、科学的な視野を持った人材を育てた事にあるとしています。承淡安の死後、彼の弟子たちが次第に主たる指導者になって行き、生誕90周年にあたる1989年に澄江鍼灸学派が形成されるのです(※澄江とは承淡安が生まれた地域の別名)。ただ清野氏によれば承淡安の教えは変容してしまったといいます。日本から持ち帰った理論が文化的・歴史的な背景もあり正しく伝わらなくなっていった。その点はかなり専門的な話になるので割愛します。古来、中国から伝わった鍼灸が日本の風土や文化により独自の発展をしたように、中華人民共和国建国後の近代中国ではまた違った発展をしたともいえるでしょう。
何にせよ、近代中国における鍼灸教育において非常に重要な人物であった承淡安。私の母校である呉竹学園とも縁がある人物です。
甲野 功
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