開院時間
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6日は父の月命日になります。令和7年1月6日に実父が亡くなりました。ひと月経ち、少し心が落ち着いてきました。しばらくは様々な状況と心境で感情の起伏が大きかったです。普段しないような凡ミスがいくつかありました。当時の事を覚えているうちに書ける範囲で記しておこうと思います。
1月6日(月)。この日から今年の社会が動き始めるという日の9時頃。燃やせるゴミの年明け最初の日でした。私も自宅で年末年始に溜まったゴミをまとめていました。その時に母からの電話。最初は気付きませんでした。2度掛かってきていて、これは珍しいと思いました。よく些細なことで分からないことがあると電話してくるのですが、立て続けに2回繰り返すことは稀です。折り返して電話をすると父が倒れた、いま救急車を呼んだといいます。急いで自宅に向かいました。そこには玄関前で倒れて布団がかけられた父の姿がありました。うつ伏せになった顔を上げて見た瞬間、これはダメかもと考えました。口に手をあてると息をしておらず。手首で脈をとると触れず。これまで4度の解剖見学実習を受けており、また日常的に脈をみる経験があります。我ながら冷静に物事が見えていました。とにかく心臓マッサージをしなければならない。過去に上級救命救急の講習を受けていて、人工呼吸はしなくていいからとにかく心臓マッサージをする。それが頭にありました。既に救急車を呼んでいるということなので、それまでひたすら行う。時刻は9:15だったと記憶しています。
肋骨を折るつもりで押す。そう習っていたので圧を躊躇なく入れていました。何分したかは考える余裕がありませんでしたが遠くで救急隊が駆け付ける音を感じました。到着した救急隊員さんに処置をお願いしました。意識レベル3、心肺停止という言葉が耳に入りました。意識レベル3というのは問いかけや刺激に反応しないという、最も重篤な状況です。心臓マッサージとAEDの装着、起動しました。AEDの解析では電気刺激を行う必要がありませんでした。
その間に母に父の保険証を用意してもらいます。私は冷蔵後にエンディングノートが張ってあるのでそれを持参したかばんに入れました。直観でもう助からないのではないかという気持ちがありました。ストレッチャーに移譲された父が救急車に入ります。母と一緒に救急車に乗ることになりました。奇しくも3年前に初めて私自身が救急搬送されており、初めてではないので余計に冷静でありました。幸い近くの救急外来に行くことができ、そこからは処置室へ父が搬送されます。蘇生処置中は中に入れません。入院手続きをするように言われて外来受付で手続きをしました。廊下の待合で待っている間に姉に連絡をしました。
しばらくして医師に呼ばれて状況を説明されました。強心剤を投与して心臓は再び動き始めたが、自発呼吸が復活しない。心肺停止時間が長くて、その間に脳に酸素が回らなかったのだろう。年齢的にも自発呼吸が再開する可能性は低く、強心剤の効果が切れれば心臓がまた停止する。蘇生処置を繰り返しても蘇生はとても難しく本人の苦痛が長くなるだけだと考えられます、ということでした。いわれる脳死状態。私も医学知識があるので理解できました。89歳の年齢を考えると奇跡的に復活するというのは難しいでしょう。姉が到着した時点で死亡確認を医師が行うということに親族として母と同意しました。
母曰く、父はいつものように生活していたそうです。朝起きてパソコンのメールをチェックして。朝食の前にゴミを出す。年末に遅れてしまいゴミ収集がされてしまっていたので年明けは絶対に間に合わせるという気持ちだったそう。ただ一人でゴミ捨て場まで行くことができず、母に付き添われてゴミを出しました。そこから自宅に戻る際に一人で歩けなくなり壁をつたいながら進み、玄関前の段差を超えることができず倒れ込んでしまったのだとか。
急なことでしたが、私の中ではどこか納得できていました。週二回父に按摩指圧とお灸、筋トレをしてきました。何年も。介護でない限り父親に日常的に触れている息子はほぼいないでしょう。何年も体を触り、話を聞いていて。年々衰えていることを感じていました。大学でワンダーフォーゲル部に所属。日本百名山を全て踏破した父。足腰は頑丈でした。昭和10年生まれの父は自身を戦争の生き残りだと言っていました。90歳近くでも杖をつくことなく歩いていました。ただ当然ながら昔から知っている息子の私には激しく衰えていることを感じていました。昨年の墓参りでも墓の段差を一人で上り下りができず手を貸さないとできません。歩くスピードも非常に遅く。ここ数年は何度も転倒して膝の皿を割ったり、救急車で搬送されたりということを繰り返していました。最後に治療にいった12月30日も玄関の段差に躓いて倒れ込んでしまっていました。筋力は残っていても平衡感覚が著しく低下していることをここ数年でみていました。
そして精神面が特に落ちていることを理解していました。かつては絶対に見せなかった息子への弱音。何かをしようという気力がなくなってきたとことあるごとに口にしていました。父はどこか破滅願望があるところがあり、若いときから「本当は40歳で死んでいるはずだった」「長生きしても仕方がない」とぼやいていました。それは見栄を張ることの裏返しで他人には強い姿を見せたいという見栄っ張りであることの裏返しだと私は感じていました。しかし最近の様子は本当に生きることが疲れている様子がうかがえました。いつしか私の頭の中に、もう長くないかもしれない、という気持ちが芽生えていました。昨年10月。父の誕生日祝いということで母と父と3人で近所に新しくできた飲食店へランチを食べにいきました。私の足なら歩いて2分の距離ですが15分くらいかかりました。その時も、あと何回外食ができるのだろうかと心の中でつぶやいたものでした。
救急外来の待合で待っている間にエンディングノートを読みました。過去に読んでおけと言われていたのですが、縁起でもないという気持ちから読むことを躊躇していました。そこにはいわゆる植物状態になった場合は延命措置を断るという意志が記されていました。そして亡くなった場合に行うことが細かく記載されていました。作成日をみると2014年とあります。10年以上前からこの日に備えていたことが分かります。
処置室に通されて、最期のお別れをしてくださいと言われました。人工呼吸器に繋がれて胸は動いています。心電図は動いていますが、途中弱くなり警告音が鳴りまた心電図が動き出し再び弱まり警告音が鳴る、ということを繰り返しています。この時が一番泣きました。意識のない父に声を掛けてあげてと言われても、それをすると本当に最期だという実感がわいてしまい。ほとんど出ない小声で感謝の言葉を発しました。最後に会話したのは年末の12月30日。どうせまた会うからと1月6日まで空いていました。最後の会話がなんだったか覚えていません。私にとっては仕事の最終日で、父にとってはその後にある町内イベントで挨拶をするという状況でした。結局父には別れの言葉は一つもかけず、ただただありがとうございました、ということだけを伝えました。
しばらくして会社勤務の姉が到着します。そして医師による死亡確認がされ、11時2分に臨終となりました。
そこからは悲しむ暇もなく物事が進んでいきます。病室で亡くなったわけではないので医師は警察に届け出る義務があります。警察官が病院に到着し説明となります。父はこのあと警察署に搬送されて監察医のチェックを受けることになります。その一方、母と私は実家に戻って警察に事情を説明することに。病院での手続きをして実家に戻りました。このあと警察官が実家に来るので準備をしておこうと考えました。
特に大きな持病が無く、突然死という形でした。当然、警察としては調査することが考えられます。午後に担当の警察が実家に到着し状況を詳しく聞いてきました。突然亡くなる理由がないと(警察も親族も)互いに困ります。既往歴や通院していた病院を聞き出し、死因に繋がる原因を探っていました。重い生活習慣病を持っていなかったか。若いときは過酷な環境で労働をしていなかったか。金品は盗まれていないか。どのような状況で倒れたのか。まさに事情聴取、現場検証という感じでした。1時間以上かかりました。
そして言われたことは、明日の朝に監察医がチェックをして不審な点があれば行政解剖になります、ということ。その場合は警察署から更に別の施設に移動する。そうなると自宅に戻る時期が分からない。監察医が解剖の必要がないと判断したら父をお返しするので葬儀屋と一緒に来てください。ですから葬儀屋さんを決めておいてください。そのように警察に指示されました。ということで父が指定した葬儀屋の番号を調べて連絡します。しばらくして葬儀屋さんから担当者が実家に来てくれました。担当者からは遺体を運ぶ車の準備があるので確実に運ぶ時刻が分からないと対応できないと言われてしまいます。それはそうだと理解できますが、いつ父が戻るのかは現時点で誰にも分からない。困って警察に連絡を取ると警察と葬儀屋で直接やり取りをしてくれることになりました。ひとまず明日の朝に母と姉と一緒に警察署に出向くことだけが決まりました。状況が目まぐるしく変わるのでそれどころではなかったのですが、夕方、自宅に戻るとまた泣けてきました。
1月7日(火)。母と姉と3人で警察署に行きます。しばし待たされ、通されました。監察医からは死因は虚血性心疾患で推測という注意書きがつくということでした。糖尿病、高脂血症の数値が出ていて弱っていたところに朝の急激な寒さが心臓に負担をかけたのでないかという。死亡診断書はこのような書き方となると言われました。書類を貰い、先に実家に戻ります。葬儀屋さんが警察署についたら父を自宅まで運んでもらうということでした。実家で待っていると父の乗った車が到着し、父のベッドに移動されました。
そして葬儀の打ち合わせに入ります。火葬場、葬儀場、住職の3つが合う日付でないと葬儀はできないと言われました。そうなのかとやや愕然とします。更に通夜、告別式と2日で行うとなると条件は更に厳しくなります。最初二日葬を希望していた母もあまりに大変だと感じ、1日で終える一日葬に切り替えました。そうすると1月10日(金)に条件が合うことが分かりました。そのまま葬儀屋とその足で葬儀場の予約を取りに行きます。死亡届を出して火葬許可証を交付されないといけません。初めての経験で葬儀屋さんに教えてもらいながら行いました。日程と場所が決まると準備が大変です。誰を呼ぶのか、香典返しはどうするのか、会食の数、遺影のこと。決めなければならないことが山積し、告知する人への対応。出ていく金額も大きいです。年齢的に母が対応できないことが多く、私が方々に連絡したり振り込んだり動かないといけません。
1月9日(木)の午後には父は葬儀場に移動しました。葬儀場の設営と納棺師のメイク確認をしに会場へ向かいました。
葬儀当日。母と私は葬儀が進むことが最優先で悲しむ余裕は皆無でした。会食で用意する食事の数は決定しているので人が増えたらどうしよう。母は喪主として挨拶しないといけない。香典を頂くので現金を管理しないといけない。イベント主催者の気持ちで泣くような余裕はありませんでした。棺桶を持って運ぶとき。男性参列者で持ち運ぶのですが、父の関係者は当然皆さんご高齢。力がありません。そのため信じられないくらい重たくて棺桶を落とすかもと思いました。顔に出さないようにしていましたが近年一番力を使いました。見かねて葬儀屋さんが手を貸してくれましたがそれがなかったら危なかったです。火葬場に母と一緒に霊柩車に乗って移動。火葬。納骨。遺骨を持ってバスに乗り再び葬儀場へ戻ります。そして会食。父の遺影にも膳が置かれることを知らず。人数ちょうどだったら足りなくなるところでした。
葬儀が終わり遺骨、位牌、遺影を持って実家に戻り、祭壇を作ってもらいました。怒涛のような時間が過ぎ、葬儀から帰ったあとは夕方まで寝てしまいました。週の始めに父が突然倒れ、週末に葬儀がありました。怒涛のような日々。この間に患者さんの予約を断ることもありました。目まぐるしく状況が変わりました。風呂やトイレで一人になると泣けてきましたし、朝が嫌な気持ちになることもありました。
まだまだやることが山積みです。毎日滅入るような気持ちでこのひと月過ごしました。月曜日の朝が不安になることもありました。それでも私は生きている以上、毎日を過ごさないといけません。やらなければならない手続きや業務があります。父が亡くなり、それが成長を促しているという実感もあります。実の親が亡くなるという経験は初めてのこと。言い方は変ですが新たに生まれ変わるような気分です。生まれ変わったという完了形には至っていません。
甲野 功
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