開院時間
平日: 10:00 - 20:00(最終受付19:00)
土: 9:00 - 18:00(最終受付17:00)
休み:日曜、祝日
電話:070-6529-3668
mail:kouno.teate@gmail.com
住所:東京都新宿区市谷甲良町2-6エクセル市ヶ谷B202
今年のはじめに父が急死してひと月以上。今もその整理に追われる日々。気持ちの整理も遺品の整理もなかなかつきません。
父はずっと企業に属して働いていました。定年退職後は勤め人の頃から行っていた諸々の業務を継続しながら最期まで現役に近い感じでした。地域の仕事にはずっと携わり、町内の名誉職に近い立場でした。大学を卒業してから定年退職するまで企業人。その父からみると私の職業は異質に映ったことでしょう。東京理科大学という私立4年制大学を現役合格、留年なく卒業(※東京理科大学は留年なしにストレートで卒業するのが非常に難しい大学。私が在学時は平均卒業年数が5.6年と言われていました)。卒業後は旧東証一部上場企業に就職。このとき、姉も理系大学を卒業し企業に就職していました。私が社会人になると入れ替わるように父は定年退職。私は42歳のときの子どもですから。これで完全に手が離れたと思ったのではないでしょうか。姉は安定して仕事を続け、総合職として地方に単身赴任することもありました。一方、私は入社直後から会社に馴染めず、出勤することが苦痛になっていました。騙し騙し続けていましたが入社3年目の春、24歳で麻疹に罹患。3日間高熱で自宅療養するも一向に改善せず、これはある程度大きな医療機関に行こうと決意しました。この時点で40℃近い発熱が続いており、近所のレントゲン撮影ができて入院施設のある病院に連れていってもらいました。このときに同伴したのが父でした。単身赴任時代が長く、私の高校入学くらいまで平日は家にいなかった父。父に病院を付き添われるというのは未就学児以来かもしれません。定年退職したからでした。私を診察した医師は特有の斑点をみて、即座に麻疹だと感じ、検査後すぐに入院しなさいと言いました。そこから人生初の9日間の入院生活に突入します。ずっと点滴の管を入れられ、解熱しないので何度も座薬を入れました。途中、ショック症状を起こして気絶する憂き目にも遭いました。退院後も1日、2日リハビリも含めて会社を休みます。近所を散歩するのにも苦労しました。また肝機能低下が起きており、しばらく過度な運動は禁止でした。この約2週間の闘病、休養期間に今の会社を辞める決意をしました。ワクチン接種をしているはずなのに麻疹に罹るというのは強いストレスで体の免疫力が落ちているからでしょう。麻疹以外にも盆や年末年始はよく風邪をひき寝込んでいました。高校、大学とそのようなことはなく、会社員になってから急激に体調不良になるようになりました。また会社に行きたくない、朝が来なければいいと思いながら就寝していました。今振り返ると十分に鬱状態だったかもしれません。命あって、健康であっての人生です。会社員を無理して続けることは自分自身にとってよくないですし、家族にも迷惑をかけると分かりました。
会社を辞める決意をして、その後どうするのか。そこで考えたのがこの仕事でした。会社に復帰してから業界研究を始め、専門学校見学、入学体験などをしていきました。そして次の進路を決定した上で9月末の退職を決定します。退職することはもっと前に決まったことでしたが。親には直前まで話すことができませんでした。私の親類に企業を辞めた人がいません。人生で初めて、そして現時点で最後の、親への手紙を書きました。それくらいプレッシャーがありました。なおこのときは実家暮らしで毎日顔を会わせています。両親としては不安でしたでしょうし残念だったと思います。高校も大学も私立に行かせてやっと就職したのに。しかもまた専門学校に行くという。就職してすぐに将来に不安を覚えた私は実家暮らしということもあり、給料のほとんどを貯金に回していました。200万はあったのでそれを学費にあてて必死に勉強と練習をしました。実家に住まわせてもらっているという負い目がありました。
民間の学校を出てリラクゼーション店で働くようになります。更にきちんと国家資格を取る必要を感じた私は鍼灸マッサージ専門学校入学を決意。再び業界研究を重ねて学校を選び、受験準備に入ります。この時の体験が進学希望者(プレ学生)への支援活動に繋がっています。正直なところ、両親には民間療法とあん摩マッサージ指圧師の違いなど分からなかったでしょう。鍼灸も。よく分からないが更に学校に行くという話を聞いて、おそらく半分呆れながら学費を支援してくれたのだと思います。反面、終身雇用が当たり前の時代に父はスキルアップを図るために企業転職を2度しました。また国の試験をパスして公費でフランスへ留学し技術を学んで帰っています。母は大学で中高の国語教員免許を取り、教員へ。その後小学校教諭になるために大学教育学部に入り直して小学校教員免許を取得。小学校の先生になりました。スキルアップのために勉強をする、立場を変えることには賛成だったと思われます。
2007年にあん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の国家資格を取得。鍼灸・整骨院に就職して現場に出るようになります。このとき、私の年齢は29歳(30歳になる年の春)。第2の人生がスタートしました。この時点でも実家暮らしだった私は時々両親にマッサージをするようになっていました。母は若い頃から肩凝りがひどく、小学生だった私によく肩もみをさせていました。息子が本職になってくれて助かるという感じでした。反対に父は子どもに面倒をみてもらうような気持があるようで、年を取った、情けないということを口に出していました。70歳を超えて体の衰えを感じるようになっていたのかもしれません。2008年4月から私は職場で働きながら柔道整復師の専門学校に通うようになります。職場の意向もあり柔道整復師も取ることに決めました。東洋医学科目がないため、鍼灸師より現代医療の勉強をする柔道整復師。医学知識が深まっていきます。また臨床現場でも経験をどんどん積んでいきます。この頃は職場から帰宅するのがだいたい夜の10時。週6日、土曜日も祝日も仕事でした。同居していましたが、学校の勉強もありますからあまり親と接する機会が無くなっていました。この頃になると父も私の仕事を理解しはじめ、また信頼するようになってきました。柔道整復師専門学校2年生の時に結婚します。職場で知り合った相手との結婚。披露宴には私の患者さんが出席。職場の同僚、上司もいてしっかりとした仕事をしていると思ったようでした。結婚を機に実家を離れて暮らし始めます。これで本当の意味で父にとっては手が離れたという気持ちだったと思います。
ところが。結婚式が終わった直後から職場の問題が表面化していきます。多くの先輩、同僚が退職をします。私もところてん式に役職が上がり管理職に。まだ柔道整復専門学生で1年後に国家試験を受ける身なのに。臨床もしながら管理職の仕事が大幅に増え、加えて学校の勉強もあります。また職場は規模を大きくするという課程に入り、私は術者よりも管理職を求められることに納得できない気持ちになっていきます。色々なことが起き、約4年間務めた職場を辞めて、まずは柔道整復師国家試験に専念することを決意します。国家試験前の1月31日。新卒で就職した修行先といえる職場を辞めました。そこから丸ひと月勉強に専念しつつ、休養を取りました。実家を離れたとはいえ両親からすると結婚して無職になるのかという失望があったことでしょう。そして2011年の3月5日に柔道整復師国家試験を受験。自己採点で合格を確信し、これから新卒柔道整復師として整形外科での就職を考えていました。しかし国家試験から1週間も経たないうちに東日本大震災が発生。自身の進路はもちろん、日本の行く末すら見通せない事態になりました。実家の片付けも手伝いつつ、この先日本がどうなるのかという不安で3月いっぱいはほとんど活動ができませんでした。当時妻が勤めていた会社の臨時アルバイトをしながら津波そして原子力発電所の被害を毎日見ている日々でした。特に原子力発電の仕事をしていて現場で長く従事していた父には報道では出ない情報が入ってきますし、元技術者として読み取れることが大いにあったようです。人知れず不安、恐怖に襲われていたようです。夏には技術者OBとして何度か福島の避難地域に入って作業、調査をしたそうです。
4月半ばになり東京が落ち着きを取り戻しはじめた頃に私の就職が決まります。震災を考えて自宅から徒歩で帰ることができる場所なる整形外科があるクリニック。できたばかりでした。これからが自身にとっても日本にとっても再スタートという気持ちでした。ゴールデンウイークになる頃には自粛をしていても仕方がない、首都圏は経済活動を回して支援をしていこうという雰囲気に。ところが就職したクリニックは大きな問題をはらんでいることが夏頃に発覚。調べるとシャレにならないものでした。せっかく新卒で就職したのにこのクリニックには未来がないと察した私は再び進路に悩みます。妻と出した結論が鍼灸マッサージ教員養成科への進学。そして卒業してすぐに開業するというものでした。翌年には第一子が生まれるという状況で再三、再四の専門学校進学。当然職場も退職。このことには事情がよく分かっていない両親は唖然としたことでしょう。何より前の職場を辞めることも、結婚式であった上司や同僚を見ているのでその後問題が起きているとは理解できなかったはず。一般大企業とは違い、スタッフが少なく人間関係が業務に直結するということは実感がないことでしょう。また次のクリニックも1年で辞めるという。しかも子どもが生まれたばかりで。両親からすると正気の沙汰とは思えなかったのではないでしょうか。クリニックに就職が決まったと報告したときは強い安堵の表情を浮かべていたので。※その後、職場だったクリニック関係者が11名逮捕されて閉院したというニュースを知ったときには危なかったねと私の行動を褒めていました。
クリニックを退職し教員養成科に進学。そして出張専門での独立。生まれたばかりの子どもを育てながら。父としては早く定職についてほしいという気持ちだったでしょう。2014年の冬。もうすぐ教員養成科を卒業するというタイミングで今の場所で開業する予定だと伝えると、こんなところに人が来るわけないだろう、とぼやきました。住宅街の奥まったところ。階段だけでエレベーターがない2階。普通のアパート。教員養成科に入ったのだから専門学校の教員になって安定した仕事になると期待していただろうに。こんなところで開業など。呆れていたと思います。開業資金が数百万円はかかるだろう、どうするのだと父は聞いてきましたが、実際には初期費用は60万程度でした。私も何年も調査して準備をしていてそこら辺は当然考えていました。まず何より継続するように。蓋をあけてみれば昨年で10周年を迎え、ある程度は私の想定通りに進んできました。
あじさい鍼灸マッサージ治療院を開業してから、父は支援につもりもあったのでしょう、週に2回按摩指圧を私に頼むようになりました。すると段々と息子が始めたよく分からない商売から術者として信用してくれるようになってきました。
まず医学的知識があること。医者に遠く及びませんが、開業当初は週に一度関東地方の大学病院で勤務していたこともあり、父よりも当然知識はありました。教員養成科でもかなり勉強しましたし。父が医療機関に行き診断名や検査値、薬をみて解説するようになると頼りにしてくれるようになります。聡明だった父も年齢を重ねると自分の事なのにどのような病名でどのような効果を期待した薬を飲んでいるのか理解できなくなってきました。元々非常に頑丈で健康な人だったので医者にかかることが納得いかないところがあったのかもしれません。その一方で臆病な一面もあり、医師の言うことが理解できず不安に駆られることもありました。あるときは肺炎で入院したことがありました。奇しくもその病院、その病室は私が20代のときに麻疹で寝ていたベッドと一緒でした。肺炎が良くなってきても胃がんの疑いがあると延々と検査や通院を迫る病院に対して、私は父にセカンドオピニオンを勧めたものでした。ずっと年下の医師に対しておかしいと思っても反論できないという。私は医学的にみてもおかしいからもうやめておけと言いました。そもそも肺炎でかかっているのになぜ胃がんの生研検査をしているのだ、と。入院中に言われて断れなかったと父は言うので、一緒に受診してきちんと私が話を聞きました。結局亡くなるまで胃がんが発症することはありませんでした。
怪我に対する知識があることも重宝されました。晩年は転ぶことが多くなった父。一度転んでから膝が痛いと訴えており、見てみると異様な腫れ方をしていました。これはおかしいから整形外科を受診してレントゲン撮影をするように伝えました。そして戻ってくると膝の皿が割れていたというのです。その後に一緒に整形外科を受診して予後の事や気をつけることを確認しました。柔道整復師の知識と経験が活きます。それ以外にも年末に外で転倒して救急搬送されたこともありました。その際も本人よりも私が医師の話を聞いておきました。段々と理解するのが億劫になっていて息子が聞いていればいいだろうという感じになっていました。
按摩指圧以外にも灸や鍼もしたことがあります。父は鍼があまり合わないと感じて灸を選択しました。週二回灸を続けていました。またその時々で出る症状に対して鍼灸を用いた対応をしてきました。鍼灸師になったばかりは頼まれなかったことが増えていきます。その理由の一つには症状が増えてきたことがありますが、こういうことをお願いしてもやってくれるという私への信頼があったのではないかと思っています。他にも足が弱ってきてからは他動的な筋トレを入れるようになりました。
開業してから最も施術をしたのは父でした。4つの国家資格と教員養成科での勉強、クリニックや大学病院での経験は父のために活かされたと我ながら思っています。そして倒れた亡くなった当日も。これが大学を卒業して一般企業に就職したまま、あるいは転職をしたとしても、会社員を続けていたらこのような接し方はできなかったでしょう。週に2回話す機会がありました。段々と耳が遠くなり、意欲が落ちてきて、10年前なら言わなかった弱音を吐く様をみてきました。息子であるのと同時に、いち術者としても接することができました。
甲野 功
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