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~京都 龍安寺~

あじさい鍼灸マッサージ治療院 京都 龍安寺
龍安寺

 

 

昨年12月で世界文化遺産に登録されて30周年を迎えた「古都京都の文化財」。実際に世界遺産に登録されたものの一つに龍安寺があります。故エリザベス女王が訪れて称賛した石庭が非常に有名です。ロック・ガーデンという直訳で世界に広まりました。今回は京都でも著名な龍安寺を紹介します。

 

大雲山 龍安寺

 

龍安寺があるのは立命館大学、金閣寺、仁和寺が並ぶ「きぬかけの路」沿いにあります。衣笠山の麓。京都駅から見ると北西の方角にあります。山に囲まれた盆地である京都で山沿いに位置します。私は昨年初めて行ってきたばかり。京都に着いた朝一番、バスで立命館大学前まで行き、そこからきぬかけの路を歩いて龍安寺に向かいました。石庭を愛する外国人が龍安寺を訪れるテレビ番組を見てから気になっていました。似たような石庭をたくさん見てきましたが龍安寺は違うものなのだろうかと。

 

大雲山龍安寺臨済宗妙心寺派の寺院です。大本山妙心寺の境外塔頭(※たっちゅう。いくつかの建物が並んで群れをなす、大きな寺院の敷地内にある独立寺院のこと。)となります。本尊は釈迦如来。創建者にあたる開基が細川勝元、初代住職にあたる開山が義天玄承です。もともとは永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地だったのですが、円融寺は徐々に衰退して、平安時代末には徳大寺実能が同地を山荘としてしまいます。この山荘を開基細川勝元が譲り受けて宝徳2年(1450年)に龍安寺を建立しました。開山として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承を迎えます。

細川勝元とは室町時代中期の武将です。室町幕府の要職に就いていました。京都で起きた応仁の乱では東軍総大将として西軍の山名宗全と戦いました。この応仁の乱の際に龍安寺は西軍の攻撃を受けて応仁2年(1468年)に焼失してしまうのです。山名宗全の死後、後を追うのか様に細川勝元は文明5年(1473年)に亡くなります。そして長享2年(1488年)に細川勝元の子である細川政元が龍安寺の再建に着手し、細川政元と特芳禅傑によって再興されます。そのため特芳を中興開山と称しています。

明応8年(1499年)には方丈(※ほうじょう。禅寺にある住持の居所。)が上棟されます。江戸時代の寛政9年(1797年)に起こった火災で主要伽藍(※がらん。寺院または寺院の主要建物群のこと。)が焼失してしまします。そのため、塔頭の西源院の方丈を龍安寺に移築して現在に至ります。

江戸時代が終わり明治維新後の明治初期には廃仏毀釈(※はいぶつきしゃく。寺院や仏像・仏具などを破壊・破却し仏教を抑圧・排斥しようとする運動)によって衰退していきます。そして明治28年(1895年)には狩野派の手による方丈の襖絵90面が他の寺院に売却されてしまいます。更に昭和初期の昭和4年(1929年)には火災により一部を焼失。戦後の昭和26年(1951年)に京都府一帯を襲った集中豪雨により裏山が崩壊し、濁水が石庭に流れ込み赤土に覆われる被害が出ます。

 

長い歴史の中で幾多の災難に見舞われた龍安寺。転機は昭和50年(1975年)、イギリスのエリザベス女王(当時)が日本を公式訪問した際に龍安寺の石庭を見学します。エリザベス女王が石庭を絶賛したことが海外でも報道されまたたく間に知れ渡り、現在では「ロック・ガーデン」として世界的に有名な日本庭園となるのでした。そして平成6年(1994年)には龍安寺はユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」に登録されます。

明治時代に売却された狩野派の襖絵90面ですが、紆余曲折を経て、その多くは所在が分からなくなっていますが、現在はアメリカのメトロポリタン美術館シアトル美術館に襖絵の一部が所蔵されています。一方、この襖絵のうち、平成22年(2010年)に「群仙図」4面と「琴棋書画図」2面が、ニューヨークでオークションに出品されたものを龍安寺が買い戻しています。また平成30年(2018年)には「芭蕉図」9面を龍安寺が買い戻しています。

 

訪れた龍安寺は想像以上に境内が広かったです。石庭よりも大きな鏡容池がまず目につきます。国の名勝に登録されていて、境内は鏡容池を中心にその周囲をまわるよう庭園となっています。一周できるのでどの方向から見るかで景観が変わります。池の中央には島があり大弁財尊天が祀られています。池の中央からみる景色もまた味わい深いものがありました。

そして方丈。国の重要文化財に指定される建物です。元の方丈が焼失した後に西源院方丈を移築したものです。慶長11年(1606年)の建立。散逸した襖絵の代わりに皐月鶴翁によって描かれた襖絵があります。これも見事なものでした。奥には「知足の蹲踞」があります。蹲踞(つくばい)とは茶室に入る前に手や口を清めるための手水鉢のことです。こちらは水戸藩主徳川光圀の寄進によるものと伝えられています(ただし置かれているのが複製だそうです)。上部にある文字が「五・隹・疋(※上の横棒がない)・矢」と読め、中心の正方形を漢字部首の「口」と見たて、吾唯知足(吾れ唯だ足るを知る)となります。「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の格言を謎解き風に図案化したものとなっています。

そして庭園は国の史跡・特別名勝に指定されている石庭です。その日も大勢の観光客が訪れていて、大多数は外国人観光客でした。特に白人が多かった印象です。白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴があります。幅25m、奥行10mほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置しています。寺伝では室町時代末期(1500年頃)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられていますが、実際のところ作庭者、作庭時期、意図ともに諸説があり定まっていないそう。石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称があります。どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されていて、日本庭園における「重なり志向」を表したものとも言われています。

渡り廊下の先は仏殿があります。寛政9年(1797年)に焼失し、昭和56年(1981年)に再建されました。

 

細かく見るとたくさんの見どころがあります。石庭が有名過ぎるのですが大きな池を中心に美しい景観が広がっています。古都京都らしい名刹で世界遺産の名前に負けません。

 

甲野 功

 

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